「共生」という言葉がある。
広辞苑の定義によると
1 ともに所を同じくして生活すること。
2 異種の生物が行動的・生理的な結びつきをもち、一緒に生活している状態。
共利共生と片利共生とに分けられる。
学校の教室における共生は1の定義である。
ただ内実においては、2の意味も入ってくる。
異なる能力、考えの人間が一緒に生活していることで、相互に何かしらの利がある。
大人も子どもも同様に、得意と不得意がある。
教える側にもこれはある。
小学校の教員だからといって、全教科を教えるのが得意という人は、今まで見たことがない。
穏やかな人も元気いっぱいな人もいる。
ネガティブで慎重派な人も、ポジティブで楽観的な人もいる。
同じ集団内には両端及びその間がいないと、バランスが悪い。
同じ傾向の人ばかりで集まると、価値観や考え方が偏り、何かと危険である。
集団内に真逆のタイプの人がいる場合、中間でバランスをとる人も必要である。
学校は、教室内も職員室内も、共生が原則である。
それも、異なる種が雑多にいる状態が自然といえる。
特に公立の小中学校のように、偶然による集団のような場合は、尚更である。
(一方、特定の私立学校、習い事や地域の野球、サッカーチームなどの場合は目的集団である。)
『不親切教師のススメ』の中でも再三述べているが、違いはあった方がいいのである。
もっと正確に言えば、不得意も多くあった方がいいのである。
自分にできないこと、苦手なことがたくさんあるからこそ、他の人の得意が生かせるのである。
他の人に「できない」「不得意」があるからこそ、たった一つしかないかもしれない自分の「得意なこと」が生かせるのである。
そういう視点で、教室も見直してみる。
ある授業でわからないといっている子どもの存在は、教師及びそれが得意な子どもの活躍の場の提供をしている。
トラブルを多く起こしがちな子どもは、教師及び子どもたちのトラブル解決能力を向上させているともいえる。
掃除が苦手という子ども、コミュニケーションが苦手、話すのが苦手、じっとしているのが苦手、全て同じ理屈である。
そういう中で、苦手、できないを放置しないのが教育における必要な「強制・矯正」である。
できないで困るという状態を矯正できるようにする。
これを助けるのは教師はもちろん、それが得意な子どもたちである。
他の権利を大きく侵害するような行為の是正に関しては「強制」することもある。
これは教室の責任者たる教師の役割である。
つまり、教室では、教師と子どもも「共生」していく必要がある。
立ち場の上下はあれど、同じチームの仲間である。
だから子どもに教師が教えてもらう、矯正してもらうことも多くある。
教室で教師に気付きを与えて成長させてくれるのは、子どもたち以外にない。
子どもが育つほど、教師も育つ。
教師が育つほど、子どもも育つ。
教室は、そこで生活する全ての人間にとっての共生の場である。
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