昨年実施したセミナーにおいて「各場面で強制、矯正をするか」という問いかけを行った。
例えば、給食の残菜が多すぎるという状況。
現在、無理矢理に食べさせることは、まずしない。
会場も満場一致で「そこは個人の選択」ということであった。
しかし恐らく、30年前に同じ問いかけをしたら、ほぼ満場一致で逆の結果になったのではないだろうか。
つまり、時代に応じて「最適解」は変わる。
一昔前の「正解」は今や「大間違い」ということはかなりある。
わかりやすい例で言えば、戦後間もない頃と、現在の食糧事情が同じはずがない。
そうなれば、食への指導のありようは全く違うものとなる。
(戦後間もない頃には、全てを底までさらっていくので、そもそも残菜自体が出ないから指導対象ですらない。)
時代は、強制・矯正ベースから、選択・個性ベースへとシフトしている。
一昔前は、学校教育の多くを占めるのが強制・矯正だった。
選択・個性に対応したものの存在割合は少なかったはずである。
現代はその比率が逆転している。
教育の中に、強制・矯正を求めるものはもちろんある。
しかし、選択・個性への対応の比率が多くを占める。
つまり、どちらも全くないという訳ではない。
どちらも存在するのだが、ベースとなるものが変わったというだけである。
選択・個性ベースの現代では、強制・矯正を発揮すべき場面は少ない。
そもそも学校では罰せられることもないため、求めに従うか否かも個々の選択である。
『不親切教師のススメ』では、子ども自身の自己決定を重視している。
何でも他人や上に決めてもらった方が楽なのだが、それを是としない。
可能な限りの自己決定を求める。
一方で、教室で起きたことの一切の責任は教師にある。
子どもが自己決定をしたことであっても、そうである。
子どもに「自分で責任をもって」と指導することはあっても、実際に子どもの「自己責任」となることはない。
教室という空間における一切は、教師の責任監督下である。
だからこそ、子どもには自らの行動に責任をもつという意識を求める。
どうせ実際に何かあったら、こちらの責任なのである。
せめて意識ぐらいしてもらわねば、勝手にやりたい放題やって、その失敗の責めだけを負うことになる。
ここは、子どもとの取引である。
教師の側は、教室における一切の権限を握っているからこそ、その全責任も負うという前提がある。
この権限を一部、相手に譲渡することができるが、その結果責任だけはこちらに残る。
つまりそれは、子どもに対し信用ができる時に限られる。
単に気持ちの上でこちらが勝手に行う信頼ではない。
権限を委譲する以上、約束の不履行をしないという信用である。
誰しも、なるべくなら、強制をしたくないと思っている。
一方で、強制しないと自分あるいは集団に不都合が生じる状態であれば、強制・矯正せざるを得ない。
それは、幼児に自由に街中を出歩かせないことと同じである。
交通ルールを守れるという前提ができるまで、そこへの選択の自由は与えられない。
例えば、修学旅行では、自由行動の範囲も示されるし、お小遣いの範囲も示される。
極端な話、お小遣いをどんなにもってきてどれだけ使おうが、こちらの知ったことではない。
しかし、そこを完全に自由にして「買い物ツアー」になってしまっては、修学旅行の目的自体が達成されない。
だから、行動範囲も買い物についても制限を設ける。
枠組みの中で自由に動いてよいということになる。
一番楽なのは、自由行動一切なしの集団ツアーであるが、これはこれで修学旅行の目的が達せられない。
だからこそ、普段からなるべく権限を与えて自己決定を求めていく。
いきなり大量に与えられると、使い方を誤る。
徐々に選択のできる権限移譲をしていくイメージである。
強制・矯正は教育からなくならない。
一方で、選択・個性を認めていく割合を増やす意識でいることが肝要である。
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