自分自身に「欠点」があると考えているだろうか。
恐らく「ありません」という人はごく少数派である。
大抵の人は、自分に何かが欠けている、あるいはだめだと思っている点がある。
学校に通う意味とは、自分が変わるためでもある。
全て今のまま、そのままでいいのなら、学校に来る必要はないからである。
友だちに会うためだという意見もあるが、自分の人間関係を変えるためといえる。
学校には、枠組みがある。
どんなに言い方を変えても、規定された「正解」が厳然としてある。
教育基本法に書いてあることを基に、学習指導要領に定められている。
例えば算数ができるようになることも運動ができるようになることも「正解」である。
例外と思われる道徳ですら求める姿があり、「正解」がある。
例えば暴力や他人を不幸に陥れる身勝手な振舞は「不正解」である。
そうなると教師には、枠組みから外れた「不正解」については、「正解」に近づける義務がある。
立場上「勉強なんてできなくていい」とは言えない。
たとえ自分自身が「運動をしなくても生きていける」と思っていても、放っておくのは単なる職務怠慢である。
即ち、子どもに対して矯正をすることになる。
ただし
「漢字を身に付けさせる」という目的のために矯正の手立てを打つことと、
「漢字が書けないと将来困る」と脅して強制させる、
という話は別である。
こと学習全般においては、矯正すべきだから強制をしていい、ということにはならない。
強制しないで「やろう」と思えるように導くことが、教師の職能として求められる。
一方で強制してでも矯正すべきこともある。
危険なことへの「緊急停止」の場合である。
学校の転落防止の柵によじ登って遊んでいる子どもがいたら、何はともあれ制する必要がある。
このことについては、以前紹介した『〈叱る依存〉がとまらない』(村中直人著)でも書かれている。
つまり、強制自体が悪ではない。
何かをより良い方向へ正そうという矯正自体が善でもない。
それを使う文脈が全てである。
「欠点を矯正するために強制する」という状況を考えると、これも文脈次第である。
例えば、薬物依存症で苦しんでいる人を矯正するためには、強制的に薬物から遠ざける必要があるというのは一般的認識である。
一方で、実はいきなり強制的に遠ざけるよりも、使用量を少しずつ減らす、その失敗に対し社会が受け容れるという体制も必要だという。
(参考文献 『薬物依存者とその家族 回復への実践録 ─ 生まれ変わり、人生を取り戻す』岩井喜代仁 どう出版)
学校では、どのような場で強制を発揮して矯正し、どのような場で矯正を諦めてそのまま受け容れるといいのか。
学校の在り方としての課題である。
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