国際比較において、日本の子どもの「自分のことが好き」という割合がダントツで低いことはよく知られている。
もちろん、日本人の謙虚な精神が表れている、という面もあるかもしれない。
しかしそれにしても、本当に低い。
自分を大事にするということは、かなり大切なことである。
この感覚は、長年社会問題となっている自殺率増加の歯止めにも関係する。
また、自分を大切にできないと、他人も大切にできなくなる。
ブログ上でも何度か書いているが、
「自分が幸せ&周りも幸せ」という形でない限り、双方の幸せが続かないからである。
例えば
「自分だけが幸せ」→「周りは不幸」→「自分にも不幸が及ぶ」という構造になる。
だから自分が幸せな分は、周りにも還元していく必要がある。
また「周りが幸せ」だと、自分もその恩恵を受けやすい。
精神的に安定した家庭に育った子どもの自己肯定感が高くなりやすいのも必然である。
一方で、そうでない家庭に育った場合にどうなるかも想像に難くない。
そして
「自分が不幸」→「周りにも不幸をまき散らす」
という構造にもなりやすい。
自分が不幸だと感じることは、周りへの妬みや嫉み、恨みに繋がりやすいからである。
その極端に行った例が、「自分が不幸だから」という理由で罪のない人に対して行われる犯罪の類である。
「自分が本当に好き」だと、こういった間違いが起きにくい。
「本当に」と付けたのは、単なるのナルシシズムとの区別のためである。
(ナルシシズムは強い劣等感の裏返しでもある。SNSで大量の「いいね!」を集めたい心理と同じである。)
「自分が本当に好き」だと、自分の心や体を大切にする。
さらに、そんな自分の住む世界を、より良いものにしたいと考える。
考えにくい人は、「自分」のところを「自分にとって大切な人」に置き換えるとよくわかる。
だから、周りの環境もより良くなって欲しいと願う。
周りの人にも幸せになって欲しいと願う。
恩恵を与えてくれる自然にも感謝し、物も大切に扱う。
ごく当然の話である。
問題は、ニワトリが先か卵が先かという話である。
つまり
「自分が好き」→「周りもいい環境になる」
なのか
「周りがいい環境」→「自分も好きになる」
なのかである。
どちらもあり得るが、主体的に行動を起こせるのは前者のみである。
周りが悪いと言っていても、何も変わらないからである。
自分を大切にする行動なら、自分で選んでできる。
例えばよい食事・よい睡眠・よい運動は、自分を大切にする行為である。
頂きものにして代替のきかないこの身体を大事に扱うのは当然である。
なるべく心身の病気にかからないようにケアすることも大切である。
休みをとってリラックスしたり、楽しみのための活動をしたりすることも、自分を大切にしているといえる。
リフレクソロジーやエステ、ネイル、買い物に使うお金などは、単なる散財ではない。
コンサートや映画、読書、あるいは「推し活」やラーメン店巡りなどの趣味も同様である。
自分を大切にしている行為である。
(ただ過ぎたるは猶及ばざるが如しで、「中毒」にまでなると、これは自分と周囲を害するのでいけない。)
掃除も、自分へのケアである。
例えば年末に大掃除をしたと思うが、新年を気持ちよく迎えるための行為である。
汚い環境で年を迎えるのは、自分と周りの両方を大切にしていないことに繋がるからである。
埃やカビにまみれた環境で過ごせば、当然病気にかかりやすくなり、それは自分も周りも大切にしていないといえる。
掃除とは、自分と周りの両方を大切にする行為なのである。
(やっと今日のテーマにたどり着いた。)
掃除をすることで、自分自身を磨くことにも繋がる。
ごみ拾い、トイレ掃除などはその最たるもので、傍から見れば非論理的で一見意味不明である。
「やればわかる」の世界である。
学級づくりにおいても、掃除については放置していると改善は見込めない。
指導が必要である。
荒れている学校はトイレを見ればわかるということ同様に、荒れてしまっている学級は、とにかく教室が汚い。
掃除はおろか、整理整頓も全くできていないので、一目瞭然である。
日常的に必要な指導をされていないことが、掃除の場面に端的に表れている。
道具の扱い方やしまい方などは、指導しないとわからないし、面倒だから整理整頓や手入れもしないのが普通である。
「きれい」「整っている」「使いやすい」を体験しないと、良さがわからない。
掃除の指導が低学年時にしっかりと行われていると、後の学年ではある程度放っておいても大丈夫である。
それは物の扱い方であったり、掃除の良さを体感して、主体的にできているということである。
「掃除ができるクラスはいいクラス」とは二十年ほど前から言っているが、実感として間違いないと確信している次第である。
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