「罪と罰」と聞けば、ドストエフスキーの作品を想像するかもしれない。
今回は文学作品ではなく、罪と罰そのものについて。
社会においては、罪を犯すと罰せられる。
罰とは感情的なものではなく、ごく具体的な働きをもつものである。
例えば
「スピード違反」という罪を犯せば
「罰金」「減点」という具体的な罰が課される。
お金の罰と権利の制限という罰である。
より重い罪の場合、「一発免許取り消し」であり、さらには禁固刑のような身体的拘束をされる場合もある。
スポーツで考える。
例えばサッカーの場合だと、危険なファウルという罪を犯せば
「イエローカード」という形で警告の罰がつく。
この場合の「警告」とは単なる感情的な注意ではなく、累積2枚で退場という具体的な罰に発展する。
そうなると、それ以降のプレーには慎重にならざるを得ない。
ひどい場合は一発退場の「レッドカード」が出される。
つまり、参加権利の剥奪という具体的な罰である。
社会やスポーツで罪に対して罰がつくことは前向きに受け入れられている。
それが健全な在り方やプレーを支える大切な役割を担ってくれるからである。
社会に警察や裁判所が、スポーツに審判がなかったら、悲惨なことになる。
さて、学校はどうか。
基本的に、義務教育において子どもに罰は課されない。
教師には「懲戒権」があるが、これも子どもの権利を制限するためではなく、改善を求めるためのものである。
懲らしめ、戒めのための説諭、説教はできるが、罰は与えられない。
私の子ども時代は「長時間の正座」や「竹刀等で叩かれる」という正真正銘の罰があった。
しかしこれは昨今、あってはならないこと、誤りであったと認識され、周知徹底された。
さて、子どもたちに聞いてみると「学校でも罰を受ける」と考えている。
具体的にどんな罰かと聞くと「悪いことをすると、怒られる」という。
これは興味深い認識である。
子どもにとっては
「怒られる」=「罰を受けた」
という認識のようである。
これは多分、一般的にどこの学校の子どもたちでも、そうではないかと思う。
大人の側もそういう認識かもしれない。
我々大人の場合で考える。
例えば、社会に損害を与えるミスをしてしまった、あるいはミスではなく意図的な不正がばれたとする。
それに対し「すごく怒られた」という「罰」を受けて「ごめんなさい」で終わったとする。
これは、社会から見て、罰を受けたと言えるか。
間違いなく「許された」「罰を免れた」という認識になる。
軽犯罪ならまだしも、重犯罪の場合でそれだったらどうかと考えれば更によくわかる。
子どもは学校で、社会でいうところの罰は受けない構造になっている。
相当に悪質なことをしても「怒られた」で終わる特殊な社会である。
怒ったところで、実は何も変わらない。
ではなぜ怒るかというと、再発防止という面と自分の感情的な口惜しさの両面である。
学校の先生や親が子どもに対して怒るのは、それ以上どうにもできない、手詰まり状態だからである。
罰を一切与えられない分の、せめてもの感情的なはけ口である。
だからこそ、もし怒らないで済むようにできるなら、怒らない方がいいに決まっている。
そしてそれができれば苦労ないというのが大方の本音である。
そして学校の子どもがしたことの場合は、罪とは呼ばない。
それは「間違い」と呼ぶ。
未熟な子どもたちは、学校で間違えることが許される。
社会に出てからの間違いは致命傷になるため、安全な場での練習をしているといえる。
叱責その他諸々は、間違いを正し善導するための方策である。
つまり、叱る、褒めるという行為は、教育上やはり有用である。
危険行為にストップをかけるのには、叱る必要がある。
良い行為を促進するには、褒める必要がある。
何がいいか悪いかわからない子どもにとって、評価がその成長の方向を決めるからである。
学校は、社会における間違いと正しさを学ぶ場である。
だから学校における子どもの間違いは罪にも罰にもならない。
だからこそ教師には、悪を悪、善を善として毅然と指導できる姿勢が求められるといえる。
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