2023年4月15日土曜日

学校の子どもに「罪と罰」は存在するか

「罪と罰」と聞けば、ドストエフスキーの作品を想像するかもしれない。

今回は文学作品ではなく、罪と罰そのものについて。


社会においては、罪を犯すと罰せられる。

罰とは感情的なものではなく、ごく具体的な働きをもつものである。


例えば

「スピード違反」という罪を犯せば

「罰金」「減点」という具体的な罰が課される。

お金の罰と権利の制限という罰である。

より重い罪の場合、「一発免許取り消し」であり、さらには禁固刑のような身体的拘束をされる場合もある。


スポーツで考える。

例えばサッカーの場合だと、危険なファウルという罪を犯せば

「イエローカード」という形で警告の罰がつく。

この場合の「警告」とは単なる感情的な注意ではなく、累積2枚で退場という具体的な罰に発展する。

そうなると、それ以降のプレーには慎重にならざるを得ない。

ひどい場合は一発退場の「レッドカード」が出される。

つまり、参加権利の剥奪という具体的な罰である。


社会やスポーツで罪に対して罰がつくことは前向きに受け入れられている。

それが健全な在り方やプレーを支える大切な役割を担ってくれるからである。

社会に警察や裁判所が、スポーツに審判がなかったら、悲惨なことになる。


さて、学校はどうか。

基本的に、義務教育において子どもに罰は課されない。

教師には「懲戒権」があるが、これも子どもの権利を制限するためではなく、改善を求めるためのものである。

懲らしめ、戒めのための説諭、説教はできるが、罰は与えられない。


私の子ども時代は「長時間の正座」や「竹刀等で叩かれる」という正真正銘の罰があった。

しかしこれは昨今、あってはならないこと、誤りであったと認識され、周知徹底された。


さて、子どもたちに聞いてみると「学校でも罰を受ける」と考えている。

具体的にどんな罰かと聞くと「悪いことをすると、怒られる」という。


これは興味深い認識である。

子どもにとっては

「怒られる」=「罰を受けた」

という認識のようである。

これは多分、一般的にどこの学校の子どもたちでも、そうではないかと思う。

大人の側もそういう認識かもしれない。


我々大人の場合で考える。

例えば、社会に損害を与えるミスをしてしまった、あるいはミスではなく意図的な不正がばれたとする。

それに対し「すごく怒られた」という「罰」を受けて「ごめんなさい」で終わったとする。


これは、社会から見て、罰を受けたと言えるか。

間違いなく「許された」「罰を免れた」という認識になる。

軽犯罪ならまだしも、重犯罪の場合でそれだったらどうかと考えれば更によくわかる。


子どもは学校で、社会でいうところの罰は受けない構造になっている。

相当に悪質なことをしても「怒られた」で終わる特殊な社会である。


怒ったところで、実は何も変わらない。

ではなぜ怒るかというと、再発防止という面と自分の感情的な口惜しさの両面である。


学校の先生や親が子どもに対して怒るのは、それ以上どうにもできない、手詰まり状態だからである。

罰を一切与えられない分の、せめてもの感情的なはけ口である。


だからこそ、もし怒らないで済むようにできるなら、怒らない方がいいに決まっている。

そしてそれができれば苦労ないというのが大方の本音である。


そして学校の子どもがしたことの場合は、罪とは呼ばない。

それは「間違い」と呼ぶ。

未熟な子どもたちは、学校で間違えることが許される。

社会に出てからの間違いは致命傷になるため、安全な場での練習をしているといえる。

叱責その他諸々は、間違いを正し善導するための方策である。


つまり、叱る、褒めるという行為は、教育上やはり有用である。

危険行為にストップをかけるのには、叱る必要がある。

良い行為を促進するには、褒める必要がある。

何がいいか悪いかわからない子どもにとって、評価がその成長の方向を決めるからである。


学校は、社会における間違いと正しさを学ぶ場である。

だから学校における子どもの間違いは罪にも罰にもならない。

だからこそ教師には、悪を悪、善を善として毅然と指導できる姿勢が求められるといえる。

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