昨年、東洋経済オンライン×ICTで次の記事がアップされた。
運動嫌いを増やしてしまう学校の体育の常識、「全員できる教」が大問題の訳
この記事では「全員できる教」と書いている。
これは「みんな教」+「できる教」の二つを合わせたものである。
全員一律、揃えることを是とする考え方を「みんな教」と呼んでいる。
「みんな教」は、トップダウンが基本で、実は民主主義とは折り合いが悪い。
「みんな」で揃えるという価値観は、個を消していくことにつながるからである。
「制服」や「指定の髪型」などはこれにあたる。
「持ち物」なども揃えることで、面倒が起きることを防げる。
また、個を消した方が、様々な面での統率がしやすくなる。
それぞれの考えを尊重していると、物事がなかなか進まない。
もちろん、「みんな」で揃えることには、大きなメリットがある。
もしメリットがないなら、とっくの昔に消え去っているはずだからである。
みんなで揃えると、まず余計なことを考えないで済む。
工夫がいらない。
さらに、何か言われた時にも「みんなこうしています」という防御壁になる。
また、集団内における個の違いを考慮しないので、たくさんの人数を一気に一律に網羅できる。
学校の一斉授業は、そこが基本設計である。
デメリットはこの逆になる。
自分の頭で考えない、工夫しない。
個の違いに対応できない、といったことである。
学校は、集団教育を基本設計にしている。
学習指導要領が定められていることからも、明らかである。
そして、これがうまく時代のニーズに合っていて、システムとしてはまっていたといえる。
しかし、『不親切教師のススメ』でも書いた通り、今は基本設計はそのままに、「個別最適な学び」が求められる。
無理矢理にでも、バランスを取ることが求められている。
そのバランスの取り方だが、今回の記事の中では「選択」をポイントに挙げている。
例えば課題が一律でも、方法に選択肢があれば、個に対応できる。
今回の記事だと「10分間走る」は一律の課題である。
しかし「ペース」には選択の余地がかなりある。
課題を選択する方法もある。
鉄棒運動や跳び箱運動で、どう学ぶか、どの技を身に付けたいかは、選択ができる。
「できる」だけを追い求めると、ここを落とす。
「できる」には価値があるが、結果だけを追い求めると、誤った競争主義に陥りやすい。
もちろん体育以外の授業でもこれは適用できる。
算数などの積み上げ学習は他と違い、課題として教科の学習内容を身に付けることが外せない。
「簡単な筆算ができなくても大丈夫」「面積が求められなくても大きな問題はない」とは言えない。
課題側を変えられない以上、学び方の選択肢を広げる方を考える必要が出る。
一律に一斉伝達というのが、集団においては最も能率がよかった。
しかし、今は集団を優先して個を捨てることが是とされないのだから、やり方を変える必要がある。
ICTの活用は、ここを大きく変換する強力な手段となる。
「GIGA」の頭文字通り、タブレット端末は個別最適な学びのために配付されたツールである。
今後、授業にICTの活用は外せない。
理科や社会科などは、教科書に加えてタブレット端末を利用すれば、動画資料からも自力で十分に学べる。
一方、実際の実験や見学に勝る学びはないので、ここは方法として外せない。
学び方の選択肢を広げる、が授業におけるキーワードの一つになると考える次第である。
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