「愛があるから叱るのだ」という野口芳宏先生の言葉を以前紹介した。
叱る場合、相手が素直ならいいが、そうでないと逆恨みされることもある。
つまり、あいはあいでも「気合い」がいる。
叱る行為には、自分が傷付くことも辞さない覚悟がいることになる。
誰でも、自分が可愛い。
自然、学校でも叱らないで誉める教育が広がり、今日に至る。
いいところを見つけ、誉めて伸ばす。
良いことは良い。
それを認める。
このこと自体はいい。
相手も自分も気持ちがいい。
しかし、物事は表裏一体である。
文房具屋でコピー用紙を買う際、
「表だけしか使わないので、裏は結構です」と言っても、
「サービスで裏もつけときます」と返ってくる。
(ちなみに、これは有田和正先生の本にあるユーモア話の一つである。)
どちらか一方だけ、というのは、物事の道理に反する。
いつも誉められまくる一方、悪い面は叱られずに容認されて育つ子ども。
子どもは、毎日楽しいだろう。
全てを認めてもらえるのだから当然である。
先生のことも大好きになるに違いない。
しかし、末恐ろしいことになることが容易に想像できる。
社会に出て、そんなことがあり得るだろうか。
悪いことは悪い。
それを教えるのも教育の大切な仕事の一つであると思う。
誉める実践を推奨している素晴らしい先生方は、叱ることもセットで行っているはずである。
そこを見ないで、誉めるところばかり真似していたら、逆効果である。
誉める教育が脚光を浴びる中に、一抹の不安を感じ、書いてみた。
2013年11月3日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿