2023年2月4日土曜日

自縄自縛を解く

 「自縄自縛」という言葉がある。

文字通りの意味は、自分のなった縄で自分自身を縛るということ。

転じて、自分の心がけや言動によって、自分自身が身動きとれなくなって苦しむことである。


学校教育におけるあらゆる問題は、まさにこの自縄自縛に端を発しているものがほとんどである。


たとえば、採用試験の倍率低下に歯止めが止まらない。


参考:外部サイト「大人んサー」

「小学校の採用倍率、1倍台が続出、全国平均は過去最低更新…教師人気は回復できるのか?」


一部には定員割れを起こしている県もあるということで、各誌ニュースにも取り上げられている。


教育実習や採用試験の在り方の検討など、様々な対策が講じられている。

これらの諸対策は、確かに大切である。


しかしながら、ここの根本・本質は、教員という職業への

「メリット・デメリット」

をどう感じているかのバランスの問題である。


その職業に対して感じるメリットがデメリットを大きく上回ると多くの人が判断しない限り、倍率上昇は望めない。

学生に限らず、教員免許はもっているけどやらないという人が多く存在している事実が、それを象徴している。


平たく言うと、そのための方向は二つである。

A メリットを大きくする

B デメリットを小さくする


企業でも家計でもそうだが、利益や貯蓄を増大するには

A 収入を増やす

B 支出を減らす

のどちらかしかないということと同じである。


今、低倍率問題を解決するのは、どちらの方向で考えればいいのか。


Aである、と言いたいところだが、恐らくBの方が現実的である。

教員の仕事の魅力は、恐らく多くの学生たちがわかっている。

子どもと共に成長し泣き笑いする感動やら何やらがあること自体は、自分自身も学校の子どもという体験をしている以上、伝わっているはずである。


また、給与を含めて教育公務員という立場が、不安定なこのご時世でそう悪いものではないことも、恐らく十分に伝わっている。

「給与を大きく上げれば人は増える」というのはその通りだが、これは手段として最も現実的でないともいえる。

「全員の成績を上げるには全員の勉強量を増やせばいい」というのと同じ理屈であり、量に頼った力技である。

(それが本当にできるなら、恐らくとっくに現場の人員を増やしているはずである。

猫の手も借りたいという現状の昨今、多人数にそんな高給を支払える余裕は尚更ない。

飲食店と同じで、人件費こそが最も高コストだからである。)


問題はBの方の、デメリットの大きさである。

学生たちは、何が嫌なのか。


「長時間労働」を筆頭に「部活動指導」「授業がきちんとできるのか」「保護者対応をできる気がしない」「給与が低い」等々。

不安の内容を聞くと色々だが、全てはたった一つに集約される。

要は


「やらねばならないことが多すぎる」


これではないかと思われる。

報酬や裁量権の大きさに対して理不尽だと感じているのかもしれない。


教員の問題は、残業時間そのものに焦点が当てられることが多い。

苦しさの本質はそこではない。

余計な業務量の多さそのものが問題なのである。


大切なのは、日々に集積したささいな、小さな業務群の量を包括的に減らす工夫である。

あるいは、理不尽なことへは対応をしないと決めることである。

それが常識にならないと、デメリットは伝わり続ける。


全ての人にとって、使える時間(=命)というリソースは、限られている。

どれも「いいことだから」「仕方ないから」と言ってやっていたら、あっという間に尽きる。

一見「いいこと」に見える余計なことを全てしているから、自縄自縛に陥る訳である。


「やらなくてもいいこと」の線引きができるかどうかである。


学校側が、ルールとして設定できる線引きもある。

例えば業務時間外でも電話に出ることが当たり前になっていれば、そこは当然「いつまでも帰れない職場」になる。

ここに、けじめとしての線を引いてもらう。

対外関係のアンケートやコンクールにもれなく協力していたら、これも大きな負担になるため、線をひいてもらう必要がある。


しかしこれらは管理職的な仕事であり、一般教員の立場からでは、どうにもしようがないことである。


自分たちでできる業務の工夫がある。

「理不尽にやらねばらないことが多すぎる」に自ら着手すればよい。

これこそが、実は自縄自縛によるものである。


なぜ理不尽なことややらねばらないことが多く存在しているのか。

ずばり、子どもや周囲の人に対し、その理不尽を自分が求めているからである。


無限に例を挙げられるが、『不親切教師のススメ』で書いたものや各種関連記事は、そこを訴えている


どれも、現代においては非合理で理不尽である。

理由はわからずとも「慣例」としてやらせる。

慣例は人権に優先する。

例えば「みんな」がやっているのだから、個人の「休み時間」は関係ない。

意味があるかは別として、周囲のみんながやっていることは日々やらねばならない。


そういうことである。

やっている側も、同じように感じていることはないだろうか。


つまり、普段自分が人にやらせていることにより、自分もそのルールに縛られることになっている。


慣例であれば、理不尽にも耐えねばならない。

それがやりたくないものであっても、屈辱的であっても、耐えねばならない。

みんながやるのであれば、私も絶対にやらねばならない。

規律が何より大切だ。

自分勝手はいけないことだ。

何より和を大切にし、乱してはならない。

・・・・・


道徳的である。

それも、考え、議論する余地を与えない道徳である。


自分が理不尽だと思って不満を抱いていることであれば、何でもいいのである。

自分も子どもや周囲にそれをやっている可能性が高い。


「コロナ対策」と銘打って、不必要なまでの過剰な感染症対策や消毒作業を命じられて日々行っているとする。

その場合は恐らく、子どもにも厳しくそれを求めているはずである。

「そこまでやらなくても」と心の奥で思うほどにやらせているのなら、自分自身も普段それをやらされているのである。

自分が一生懸命やっている分だけ、相手にもそれと同等の基準を求めてしまうという当然の心理である。


例えば「子どもたちが言うことをきかない」でもいい。

それは自分が普段から無理矢理言うことをきかせようとしている姿勢の裏返しである。

その根本は、自分自身が心の底で管理に対し反発しているからかもしれない。


例えば「子どもが勉強をせずにだらしない」でもいい。

それは自分が普段から「勉強をさせて成果を上げねばならない」という強迫観念で強制している証拠である。

そして、自分自身が勉強していない現実を見たくないのかもしれない。


例えば「保護者の要求が激しい」でもいい。

それは、普段子どもや家庭にこちらが激しく求めている証である。

根本は、やはり自分自身が管理職や周囲から強く要求を出されて苦悩している可能性がある。


あるご家庭に「もっときちんと見てください」と言えば、周囲も「先生、もっとよく見てください」と返ってくる。

それも、直接ではなく、間接的に返ってくる。

Aさんの家に言ったことが、Bさん、Cさんの家に周り回って、やがてDさんの家から来るのである。


「宿題をきちんとやりなさい」と全員に強く指導する。

そうすれば「宿題をきちんと見なさい」と全員がこちらにも強く要求してくる。

作用反作用の法則で、当然のことである。


不親切教師のススメ』では、この苦しみから脱する提案をしている。

苦しみの根源は、教師の善意による過剰な親切である。

その善意が、人を苦しめているかもしれないという自覚をもつか否か。

それこそが自らの苦しみの根本的解決への道標である。

例えば7章で「子どもの家庭を覗かない」ということを提案しているのは、そのためである。


その過剰な親切をやめれば、自縄自縛が解ける。

自分自身の手で、自分自身を縛る縄をきつく握りしめ、引っ張っている事実に気付くことである。

その手を緩めれば、さらっと縄が解け落ちる。


そして無理なく教室での生活を子どもと一緒に楽しんでいる教師の姿を事実として示すこと。

「先生って、いつも暇そうだね!」と子どもに言ってもらえる&世間に認識されるようになったら、ある意味大成功である。


全国の教員が一斉にその気になれば、すぐにでもできることである。

絶対に解けないと固く信じているその手を緩めてみる。

隣の人の縄があっさり解けるのを見た人が、自分もそうしようと真似して緩めて解く。

この連鎖である。


採用試験の倍率を上げる鍵は、実は私たち現役教員の手にこそ委ねられているかもしれない。

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