2020年4月28日火曜日

利他の精神が最も「利己」につながる

我利我利主義と利他の精神について。

「利他の精神」などというと、滅私奉公の立派なことを言っていると思われるかもしれない。
そうではない。
利他の精神は、突き詰めていくと最も大きな自分自身への「利己」になる。
「利己」としたのは、利己主義における「自分さえよければいい」という利己と区別するためである。
もっと純粋に、己にとって利するという意味である。

どういうことか。

学級が最もわかりやすいので、学級でたとえる。

Aという学級がある。
ここでは、みんなが互いに自分のことだけを考え、自分さえよければいいという考えの子ども(と親)が集まった学級である。

基本的な価値観は、勝利と賞賛。
基本は相対評価であり、集団内のある特定の価値基準において、他者より優れていることが勝者の条件である。

価値基準の一例を挙げると、学力(点数や評定)、技能(再現性)、外見、人気、友人の数、同質性、親の社会的地位や収入、などである。

一見「仲良し」のグループ内でも、笑顔の裏は常に疑心暗鬼で、「普通」「みんな」からはみ出ることは許されず、殺伐としたいじめやマウント争いが絶えない。

敗北や失敗は悪という世界である。
弱肉強食の獣集団、あるいは既定のプログラムに無思考で従えるのが優秀とみなされるロボット集団の住む世界である。

Bという学級がある。
ここでは、みんなが互いに相手のことを考え、どうすればみんなが幸せに過ごせるかという考えの子ども(と親)が集まった学級である。

基本的な価値観は、個性の尊重と調和。
基本は個人内評価であり、いかに以前より伸びたか、他者へ貢献できたかが成功の条件となる。

価値基準の一例を挙げると、学力(伸びや他者への教え)、技能(創造性)、個性、貢献度、思いやり、などである。

いつもつるんでいるわけではなく、個でいながらも必要な時には協力し、助け合うのが当たり前の世界である。

もちろん競争もあるが、勝者は敗者に手を差し伸べる温かさがある。
個性の異なる人と人とがつながり調和しあう「人間」の住む世界である。

利他であるということは、究極、自分自身が最も恩恵を受ける。
集団全員が利他に徹していると、他者から自分も大切にされてしまうからである。

たとえ自分だけが利他の精神の場合でも、集団でいい方に目立ってしまい、結局重宝され、大切にされてしまう。
それをねらうわけではないのだが、そうなってしまうというのが利他の精神である。

「競争」の象徴といえそうな、セールスマンですらも同じである。
最も売れるセールスマンというのは、決して売り込みまくる人ではないという。
お客様のことを真剣に考え、お客様の幸せを優先するなら他社を紹介することも辞さない人である。
(自社の商品が悪いというのではなく、食品や化粧品のように、個人に合う合わないというのがある。)

何なら、お客様の幸せのために、商品と全く関係ないことのお世話までしてくれる人もいるという。
実際、車のセールスマンなのにお年寄り宅の庭の草刈りを手伝ったとか買い物に行ってあげたとか、そういう話はごまんとある。
(この人は、相手が運転できないから車を買わないのも知っている。でも、結局息子とかを紹介されてしまうのである。)

そういう人には「次何かある時はこの人」となるのは、至極当然である。
こういう人は、セールスマンではなく、「サービスマン」なのである。
利他の精神に満ち溢れ、他者貢献が好きでたまらない人である。
どうやっても、他から求められ、大切にされてしまう。

ここで大切なのは「自己犠牲」にならないことである。
他者貢献と自己犠牲は、似ているようで全く違う。
他者貢献は、やりたくてやる。(主体的である。)
自己犠牲は、やりたくないけどやる。(自主的である。)
この違いは大きい。

学校教育で求められるのは「主体的・対話的で深い学び」である。
主体的というのは、心からの行為である。
いやいやでもやる自主的とは違う。

そして利他の精神、他者貢献を目指す行動は、主体的になりやすい。
自分のやっていることが喜ばれたり、自分の中で価値を感じたりしやすいためである。

利他の精神は、我利我利主義の不幸スパイラルから抜ける唯一の手段である。
競争も、利他の精神でやれば、内実は全く変わったものとなる。

今自分には何ができるか、考えてみることからである。

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