そもそも、通知票は何の為に存在するのだろうか。
私は子どもの頃から、通知票なんかなければいいのにと常々思っていた。
なぜかというと、成績が下がる度に親にがっかりされるのである。
いや、がっかりされなくても、何だか自分に対しての敗北感があった。
よくよく考えたら、上がれば下がる、下がれば上がるの繰り返しであり、実力の周辺をうろうろするだけである。
当時は相対評価だったので、結構できたつもりでもA評価でなかったり、ちょっとできないぐらいでもC評価がついたりした。
通知票があるから、子どもは勉強が嫌いになるのではないか。
通知票をなくせば、学校が楽しくなるのではないか。
そんなことを考えたことがあった。
そういうことを教師になってから他の人に話すと「親が子どもの出来具合を知りたいんだよ」ということを教えられた。
通知票をなくして、荒れた学校の事例も本で読んだ。
また、「実力を正しく評価してもらうのは嬉しい」ということにも気付いた。
そう考えると、通知票にはやはり一定の存在価値があるといえる。
しかしながら、その本当の存在意義は何なのか。
次号は、その辺りを考えていく。
2012年3月8日木曜日
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