教室には、大抵掲示物のスペースがある。
よく側面や後方面に設置されている、画鋲を刺しておける壁の部分である。
ここにおいて、時折とんでもなく硬い場所がある。
見た目はどれもゴム状の凹凸コーティングがされていて「掲示できます」という風貌だが、下地が全く違う。
モルタルのような柔らかい下地であればサクッとスムーズに刺さる。
一方で、コンクリートのような硬い下地のものだと容易には刺さらず、無理すると画鋲か爪の方がへし折れる。
しかし、両者とも見た目は全く同じなのである。
こういうことは身の回りのあらゆることに溢れている。
例えば、生鮮食品。
見た目がそっくりで同じような野菜でも、育てられた環境によって、そこに含まれる栄養素は全く異なる。
鶏卵でも、狭いケージの中でひたすら生まされ続けたものと、広い敷地でのびのび平飼いされた鶏が生んだ卵は、中身が全く違う。
(ちなみに、牛肉の「霜降り」にするには、敢えて運動させずにストレスをかけて脂肪をつけさせる方法もあるという。
本当に良い環境で大事に育てられて育った牛の高級な肉と、見た目だけだと見分けがつかない。
考えてしまう話である。)
例えば、製品。
ブランドバッグの偽物はかなり精巧に似せて作ってあるが、全くの似て非なるものである。
宝石も本物とイミテーションは見た目が同じなだけで、内実は全く異なるものである。
(かつてココ・シャネルは敢えてのイミテーションジュエリーをつくって流行させたそうだが、これも反骨精神からである。)
家電製品なども、かなりの似たものがある。
一つ大ヒット商品が出ると、それを真似て他社からも次々とそっくりで安価なものが出る。
しかし、やはり先駆者であるオリジナルのものは、その性能や品質において他に抜きんでたものがあることが多い。
100円均一のものはコストパフォーマンスを考えると、それなりに優秀であるものも多い。
しかしやはり100円の品であり、設計段階から材質まできちんと作られた本物とは全く違う。
要は、使い方次第である。
物事は、見た目だと判断を誤る。
見た目はあくまで見た目である。
良いと判断されるための装いも大切だが、その本質を見ることがより大切である。
教育においても同じである。
子どもを見る時も同じである。
見た目や現象で判断すると、本質的な判断を見誤る。
一番わかりやすいのが、テストの点数である。
同じテストの100点でも、一体どういう背景でとれた100点なのか。
元々勉強が好きで楽々とった100点なのか。
本人が一念発起して努力の末に勝ち取った100点なのか。
誰かに無理矢理やらされてとった100点なのか。
不正行為による100点なのか。
どれも見た目は「100点満点」である。
通知表のAやBにも同じことがいえる。
子どもの失敗にもいえる。
現象としてはどれも同じように見える失敗にも、背景がある。
本質を見ない指導は、子どもの成長を阻害する可能性がある。
本質を見事に捉えることができれば、失敗を大きな成長のチャンスにすることもできる。
見た目に惑わされないことである。
自然な姿が出ているほど、それは本質に近い。
自然の中でのびのび遊んでいる天真爛漫な子どもたちは、その時自分を作っていないから、見た目が本質そのままである。
一方で、社会におけるお利口な子ども、賢い子どもは状況に応じて上手に「作る」ので、そのまま見ると本質を見誤る。
作られた姿が出ている時ほど、本質とは真逆のことが多い。
「大人が見ている時だけ、評価される時だけがんばる」というのが最も顕著な傾向である。
やたらと反抗的な子ども、あるいは問題行動も、見た目で捉えると本質を見誤る。
大抵、外向け、社会向けに作った姿や表出した現象である。
生意気で反抗的、あるいは「どうしようもない」と見える子どもの心の底にある苦しみという本質にこそ、目を向ける必要がある。
見た目と中身は違う。
広告やパッケージ、華やかな見た目づくりが巧みな昨今こそ、本質を見直し、見極められるようにしたい。
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