広島の原爆忌の日に書いた記事。
明日は、長崎である。
8月4日付のメルマガで「正義なら悪をやっつけてもいいか」ということについて書いた。
(参考:まぐまぐニュースに取り上げられたので同様の記事あり )
正義とは極めて主観的かつ相対的な概念である。
相対的であるため「絶対の正義」は存在しない。
正義があるから悪が存在する。
悪者がいない物語には、正義の味方も存在し得ない。
正しいことが存在しなかったら、悪いことも存在できない。
愛があるからも憎しみも存在する。
愛するものがいるから、傷つけられたら憎む。
誰も愛していなかったら、憎しみも生まれない。
オリンピックでいえば、敗北があるから勝利が存在する。
「全員優勝」では競技にならない。
競争は常に勝者と敗者という差と序列とを求める。
サッカーだったら、ペナルティエリア内でファウルがあれば、歓喜と悲鳴が同時に起きる。
各種競技の審査における0.001点差の僅差の勝利は歓喜を生む。
それは同時に僅差の敗北者を生み、その両者の明暗の差は、明白である。
この万物の両面性は、普遍的真理である。
ずっと以前に紹介したタレントのタモリさんの言葉
「LOVEさえなければ、PEACE」
もこれである。
(参考:まぐまぐニュース過去記事)
各国に、それぞれの正義がある。
この存在自体は否定できない。
宗教ごとに正義が別にあるのと同じである。
正義が生まれると同時に悪が生まれるので、対立は必ず起きる。
相手の立場になれば、こちらが悪である。
逆に言えば、相手がこちらの立場になってくれれば、元の相手側が悪に見える。
だから、何が正義だ悪だといった議論は、永遠に埒が明かないし非生産的である。
戦争をすれば必ずそれぞれの立場の正義と悪が同時発生して乱立し、大量の犠牲者が出る。
(そしてその犠牲者の大半は、力の弱い者である。)
原爆投下の事実は間違いなく存在したのだから、それは今後も歴史として永遠に伝えるべき事である。
風化させず忘れないことで、世界が過ちを繰り返さなくなるための抑止力にもなる。
それが歴史を学ぶ意義でもある。
(これは現在なお解決策が見えない東日本大震災への扱いについても同じである。
辛い思いをした人々の記憶を癒して欲しいと願うと同時に、問題としては風化させない。)
しかし、それは正義が悪を断罪するためのものではない。
まして、決して他を責めるためではない。
あくまでもその意義は、反省し、同じ過ちを繰り返さない、繰り返させないためである。
これら全てについて、教育のレベルに落とし込んで考える。
戦争のような過ちから何をこそ子どもに教えるべきか。
あるいは、どのような小さなことから、戦争のような悲劇を繰り返さないよう教育するのか。
それは、他を攻撃すること、責めることの愚かしさを学ぶことである。
正しさを振りかざし、相手を支配することの愚かしさともいえる。
実は自己への攻撃があるからこそ、他者への攻撃が起きる。
自分自身を認めず責めるから、自分自身を他から守る必要が起きてしまう。
結果的に、他者を攻撃し、責め、奪い、支配するようになる。
これらの愚かしさは、人間関係の中から学べる。
時にけんかをしたり意地悪をしたりされたりする中で、これを心地よくないと感じ、どうするか考える。
絶対に私が正しくて相手が悪いのだと思っていたのが、話し合う中で「おや?」と気付く。
意地悪をしてしまうのは、実は相手が悪い子だからではなく、自分に自信がなくて守るためなのだとある日気付く。
気付く子どもは、自分の在り方次第で相手が変わる、世界が変わるということに気付く。
(ただしこれには多くの場合、指導者や周りの人間の助けがいる。指導者が大切な所以である。)
つまり、自分自身を認めておらず、自信がないから、人を認められないで、責める。
逆に言えば、自分を認めると、人を認めるようになり、責めなくなる。
「自分にもそういうところがあるし、失敗もする」と思い、自分自身を受容する。
そうなると人を責めないで、事情を慮るという行為につながっていく。
多様性への受容につながる。
「自分自身」のアイデンティティの中には、国も含まれる。
今の自国を認め、他国を認め、責めない。
その前提姿勢があってこそ、戦争の歴史を振り返ることに初めて意義が出る。
8月6日、9日の両原爆忌は、国際社会における日本人という立場にとっても、決して忘れてはならない日である。
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