自治的学級づくりシリーズ。
判断する力をつける大切さについて。
自治を、自分たちのことを自分たちで決定・実行することと定義づける。
その時に必要なことは何か。
それが、判断する力である。
判断しない、というのが最も自治から遠い状態になる。
以前にも書いた
「先生、○○してもいいですか?」
は、ずばりこれである。
いいか悪いか、自分で判断せずに、他者にそれを委ねてしまっている。
これをやり続けると、どうなるか。
思考が停止するだけでなく、結果の責任も取らなくなる。
失敗を人のせいにし、他責的になる。
人に任せたくせに、それを判断した人のミスや失敗を責めるようになる。
外野から野次を飛ばすだけなのだから、簡単である。
「私が○○できないのはあの人のせいだ」となる。
なぜなら、自分で判断した結果ではないから、自分に責任がないと考えるのである。
(これは、大人社会の場合にも当てはまる。)
自分で判断する力をつけることである。
ここでいう判断力とは、単純化すると○×をつける力である。
ある事柄に対し、それが○か×かを根拠をもって決める。
極端な話、その判断が「間違って」いてもいいのである。
より良い結果につながる判断かどうかなんて、実際にやってみないとわからない。
大切なのは「自分で判断した」という一点である。
自治的学級づくりでは、普段から子ども対して、意図的にその機会を多く設ける必要がある。
判断は、ごく小さいところからである。
生活場面だと
・この道具はどこにしまうべきか。
・掃除で自分の分担が早く終わったら何をすべきか。
・給食のこのおかずの1回分の配膳の量はどれぐらいが適当か。
こういったものが数多くあげられる。
「先生、これでいいですか?」ときかない生活の全てが判断場面の連続ともいえる。
学習場面だと
・ある問に対し、自分の意見は○か×か決める。
・AかBか、どちらがいいか決める。
・手を挙げて発言するか否か決める。
・どの発表方法をとるべきか決める。
これらも全て判断場面である。
自分で何かの○×をつけることは、判断のトレーニングになる。
漢字や計算ドリルなども、自分で○×の正誤判断ができるようになると、教科の力がつくだけでなく、判断基準ができる。
また、これは単に機械的に○×がつけられるようになるのとは訳が違う。
学校の答案用紙には、珍解答も多く、微妙な○×の判断に苦悩するものがかなりある。
応用が利くようになると、
「この場合は普通は×だが、こういう場合には○もあり得る」
というようなことも考えられるようになる。
極端な話、利き手を骨折していた子どもが逆の手で書いた字があるとする。
それが漢字テストの場合、通常のように厳しく見て、少しの形の崩れに×をつけるということはしないはずである。
そういうことを判断できるようになると、要するに状況を読むということの素地ができる。
状況を観察し、相手を慮るという状態である。
その上で判断ができるようになる。
即ち、判断力がつくと、自治的集団として動けるようになる。
何がこの集団にとってよい、あるいはこの状況に適している、と考えて判断できるからである。
クラス会議で議題に対して意見が出せるのも、自分で判断するからである。
「これがいいのではないか」という判断基準があるからこそ、発言ができる。
普段から判断する力を連続的につける。
子どもが自ら判断し続ける。
これが自治的集団づくりに必須の教育行為ではないかと思われる。
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