2021年8月18日水曜日

自治的学級づくりでは判断する力をつける

 自治的学級づくりシリーズ。


判断する力をつける大切さについて。


自治を、自分たちのことを自分たちで決定・実行することと定義づける。

その時に必要なことは何か。

それが、判断する力である。


判断しない、というのが最も自治から遠い状態になる。

以前にも書いた

「先生、○○してもいいですか?」

は、ずばりこれである。

いいか悪いか、自分で判断せずに、他者にそれを委ねてしまっている。


これをやり続けると、どうなるか。

思考が停止するだけでなく、結果の責任も取らなくなる。

失敗を人のせいにし、他責的になる。

人に任せたくせに、それを判断した人のミスや失敗を責めるようになる。

外野から野次を飛ばすだけなのだから、簡単である。


「私が○○できないのはあの人のせいだ」となる。

なぜなら、自分で判断した結果ではないから、自分に責任がないと考えるのである。

(これは、大人社会の場合にも当てはまる。)


自分で判断する力をつけることである。

ここでいう判断力とは、単純化すると○×をつける力である。

ある事柄に対し、それが○か×かを根拠をもって決める。


極端な話、その判断が「間違って」いてもいいのである。

より良い結果につながる判断かどうかなんて、実際にやってみないとわからない。

大切なのは「自分で判断した」という一点である。


自治的学級づくりでは、普段から子ども対して、意図的にその機会を多く設ける必要がある。


判断は、ごく小さいところからである。


生活場面だと

・この道具はどこにしまうべきか。

・掃除で自分の分担が早く終わったら何をすべきか。

・給食のこのおかずの1回分の配膳の量はどれぐらいが適当か。

こういったものが数多くあげられる。

「先生、これでいいですか?」ときかない生活の全てが判断場面の連続ともいえる。


学習場面だと

・ある問に対し、自分の意見は○か×か決める。

・AかBか、どちらがいいか決める。

・手を挙げて発言するか否か決める。

・どの発表方法をとるべきか決める。

これらも全て判断場面である。


自分で何かの○×をつけることは、判断のトレーニングになる。

漢字や計算ドリルなども、自分で○×の正誤判断ができるようになると、教科の力がつくだけでなく、判断基準ができる。


また、これは単に機械的に○×がつけられるようになるのとは訳が違う。

学校の答案用紙には、珍解答も多く、微妙な○×の判断に苦悩するものがかなりある。


応用が利くようになると、

「この場合は普通は×だが、こういう場合には○もあり得る」

というようなことも考えられるようになる。


極端な話、利き手を骨折していた子どもが逆の手で書いた字があるとする。

それが漢字テストの場合、通常のように厳しく見て、少しの形の崩れに×をつけるということはしないはずである。


そういうことを判断できるようになると、要するに状況を読むということの素地ができる。

状況を観察し、相手を慮るという状態である。

その上で判断ができるようになる。


即ち、判断力がつくと、自治的集団として動けるようになる。

何がこの集団にとってよい、あるいはこの状況に適している、と考えて判断できるからである。


クラス会議で議題に対して意見が出せるのも、自分で判断するからである。

「これがいいのではないか」という判断基準があるからこそ、発言ができる。


普段から判断する力を連続的につける。

子どもが自ら判断し続ける。

これが自治的集団づくりに必須の教育行為ではないかと思われる。

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