自治的学級づくりについて。
自治的学級では、会議でも全員に平等に発言権が与えられる。
きわめて公平な措置である。
一方で、自治的学級においては、しっかりと格差も存在する。
この前提を落とさないことが大切である。
師の野口芳宏先生の言葉にも次のものがある。
「安心、安定、秩序、格差。」
(心に刻む日めくり言葉 教師が伸びるための 野口芳宏 師道 さくら社 より引用
)
全てを平等にすれば秩序は乱れる。
差が秩序を保つ、とも述べられている。
私も全く同感である。
この「格差」という言葉は、字面でマイナスイメージをもたれやすい。
恐らく、一般でのこの言葉の使われ方があまりよろしくないせいである。
しかし過去何度も述べているように、ある言葉自体に良いも悪いもない。
イメージで決めつけず、その言葉に正対することが大切である。
格差とは、程度の差である。
違う人間同士のもつそれぞれのものが、同じ程度であるはずがない。
能力含め、あらゆることに差があるのが自然である。
これを無理になくして揃えようとすることこそが、不自然そのものである。
自治的学級では、個が尊重される。
それは、違いが尊重されるということである。
Aがいいという考えとBがいいという考えが出る。
価値観の差、格差である。
その両端を認める。
その前提で、集団での合意形成が必要な場面では折り合いをつける。
Aが得意でBが苦手という人と、Aは苦手だがBが得意という人の両方がいる。
あるいは、これがC,D,E・・・様々に得意と不得意の違いがある。
能力の格差である。
これがあるからこそ、助け合える。
得意な人が「任せろ!」と言って活躍できるのは、それを苦手な人が「助けて!」と言ってくれるからこそである。
得意な側だけが偉いわけでは決してなく、両者がいてこそ成り立つ。
お互いが必要とし合っているのである。
ブロックの凸凹、あるいはパズルのピースがぴたりとはまる感じである。
自治的学級づくりは、これができている状態である。
お互いが自分のできることで、自分たちのやるべきことを自分たちで行っていく。
得意の相互提供が成り立っている状態である。
そこにはそれぞれの様々な能力における格差がある。
そこにあるのは、あくまで相互扶助の関係であり、上下関係ではない。
格差とは、単なる上下を指す訳ではない。
程度に差があることをいう。
上が偉いとか言っている訳では決してない。
差があり、違いがあるのを認めるというだけである。
例えば、夏休みの宿題を、一律に平等に出すとする。
これは「公平」といえるか。
否である。
同じ分量のものに対し、全員が同じ時間、同じ労力でできる訳がない。
実際には、楽々1の労力でできる子どもと、大変困難で100の労力がかかる子どもに分かれる。
安易な平等主義ではこれが正義だが、実際に公平とはとてもいえない。
差を認めれば、一律に宿題を出すことがいかに不公平であるかがわかる。
給食も同じで、給食費というものを一律に「もの」にかかっていると考えると、全員等分量が平等である。
しかし、体の大きさや食べる量、嗜好性などを無視した平等が本当に幸せや安心につながるだろうか。
その理論だと、特定の誰かだけがおかわりすることはできない。
しかも、全員、残すことも許されない。
同一の時間内に食べ終わらないことも「平等違反」である。
この論の場合、平等に時間内に食べ終わるべきものだからである。
また、アレルギー対応は不平等では?とかさらに話はややこしいことになる。
要するに、給食の献立などは基本的に一律であり、レストランとは違って個々人の嗜好性で注文したものではない。
よって、同じだけの分量を同じように食べよというのは、平等ではあるが公平ではない。
食べられない人の分量は最初から減らしてあげて、たくさん食べたい人に分けてあげれば、誰もが幸せな話である。
格差があって然るべきことなのである。
学級の日々には、授業中も含め、日常的にこんなことが溢れている。
自治的学級づくりを目指すのであれば、格差が前提になるのは必然である。
今度の公開研究会でもテーマにしているが、個人の特性を生かす係活動など、個々の嗜好性の差が思い切り出る。
差という言葉に過剰反応せずに、その良さを認めていくこと。
意外と抜けている視点ではないかと思い、示してみた。
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