願いをもつことの大切さは古くから言われている。
しかしながら、ここに実は一つ落とし穴がある。
使い方次第で有用だし、使い方次第で害悪にもなりうる。
前号に書いた、期待の方向に加え、今回はその大きさについて。
二者間で考える。
全ての人間関係は、二者間の連続によるネットワーク構成となっているからである。
どれも紐解いていけば、二者間の関係になる。
互いの期待の方向が一致していること。
これが良い期待の関係というのは前号で書いた。
ここにずれが生じると不幸を生む。
この方向がずれている時点で、もう既にうまくいかない。
(例:期待している側だけが勝手に期待している状態、または逆の状態。)
もう一つが、質量といえばいいか、期待の大きさである。
期待値である。
方向が一致していても、それが過剰な場合である。
期待というのは、ある結果を待っている。
つまり、遂行能力を信じているわけである。
しかし、期待値に対する能力が足りていないということは十分にあり得る。
そうなると、期待しているほどの結果が出ないので、がっかりする。
場合によっては、お互いに悲しみだしたり怒りだしたりする。
例を挙げる。
テストの結果が出た。
90点だった。
自分はもともと100点をとれると思っていなかったので、いいだろうと思っている。
相手は、自分の100点のみを期待していた。
そのがっかり感が伝わる。
がっかりする、されるという残念な結果である。
自分自身との関係にもいえる。
もともと、100点をとれるほどの努力を実はしていない。
しかし、自分はがんばったし、100点をとれると信じ込んでいた。
こうなると、90点で落ち込む。
自分はだめなんだと自暴自棄な気分になる。
「あんなに一生懸命やったのに」と考えるという、残念な結果である。
本来は、能力通りの結果が正しく出ただけである。
要するに、期待値が実際よりも高いと、怒りや哀しみを生む原因になる。
逆に言えば、期待を一切手放すと、怒りや哀しみは生まれない。
例を挙げる。
朝、教室が騒がしい。
物が散乱し、けんかも起きている。
静かな状態を期待していると、とても残念な気持ちになる。
しかし何も期待していないと、フラットでそれを見られる。
「散らかっているな」「何かあったかな」
という感じである。
総じて、学級担任は子どもに期待しすぎになりがちである。
「自分ができていないことは、子どもにもできない」という前提が頭から抜け落ちている。
さらに厄介な事実がある。
自分自身ができていないと気にしていることほど、子どもができていないと気になる。
じゃあ自分ができないといけないのだ、と考えると、不幸の元である。
ここには、救いもある。
自分ができていなくても気にならないことだと、子どもができていなくても気にならない。
要は、捉え方が全てである。
今の期待値を下げる。
自分自身へも、相手へもである。
しかし、未来へは大きめの期待をしておく。
今はこうでも、1年後にはこうなるはず。
変わっているはずという希望をもつ。
それが、「今」の原動力につながる。
これこそが目標というものの在り方であり、目標活用の有用性はそこである。
最悪、1年後にがっかりする分にはいいと割り切って考える。
むしろ、その時に期待通りになっていなくても、意外にがっかりすることはない。
がっかりするとしたら、いつでも「今」に期待しすぎているからである。
1年後も、1年後になれば「今」なのである。
期待値を下げる。
ストレスを感じているなら、それは自分にも他人にも期待しすぎていないか。
見直してみるといいかもしれない。
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