学級経営に関する悩みと、それをどう考えるかについて。
学級経営に関する悩みで最も多く寄せられるものは「話を聞かない」。
これである。
だから、新刊はここに絞って書いた。
『学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』学陽書房
専科などで入る先生もこれで悩むことが結構ある。
学級経営の問題なのか授業技量の問題なのかは断定できない。
しかしながら、専科の時だけきかないとしても、それはそれで学級経営が上手くいっているとは言い難い。
子どもを教える際の大前提がある。
そもそも、子どもというより、人は人の話を聞かないものである。
幼児に近い年齢の子どもなら尚更である。
35人学級で全員きちんと話を聞いている低学年の集団なぞ、想像するだけで恐ろしい。
基本的に「自分だけの世界」というのが標準レベルである。
だからこそ、この時期の指導が重要になるともいえる。
高学年以降になると、意図的に話を聞かないということも起きる。
相手によって態度を変えるためである。
これは「望ましくない」といえるかもしれないが、自立への成長の過程としては必要な時期でもある。
ある意味、主体的に選択している態度ともいえる。(その結果責任まで考えているかどうかは別問題である。)
いずれにせよ、こちらの話は普通にしていたら聞いてもらえると思わない方が健全である。
八方手を尽くして、やっと少し聞くかもしれない、程度である。
長い話はまずダメである。
長くなると、そもそも理解ができない。
集中力も続かない。
つまらない話もダメである。
聞いていても無駄で、聞かない方が得してしまうようなものもダメである。
さて、ダメなことばかり挙げても絶望的になるだけなので、大切なのは、どうするかである。
王道は、少数の優秀な聞き手を育てることからである。
絶対に、一生懸命聞いている子どもがいる。
そこを認め、そこに向かって話す。
一点、風穴を開ければ、そこから打開できる可能性が高まる。
すると、良い聞き手を真似をする子どもが出る。
集団は、認められる方に引っ張られるからである。
逆に、聞かない子どもを叱責したり注目したり丁寧に接してあげたりしていれば、集団もそちらに引っ張られる。
叱責行為も注目行為も「見てとめる」=「認める」の一種である。
全員がしっかりと聞けるようになることは望むべくもない。
そんな集団は大人でもまず見ない。
そもそも耳からの情報が苦手な人間は一定数存在する。
視覚情報を合わせながら話すことも有効であるし、困ったら近くの人に頼るように指導していくことも手である。
それでも、わざと話を遮って騒ぐ子どももいる。
この場合は、注目お試し行動である。
自分でどうしていいかわからずコントロール不全のパニックを起こしていることもある。
ここはその子どものためも含めて、無言の対応や意図的無視を状況に応じて使う。(事前にその説明もしておくのが望ましい。)
大抵の場合、騒ぐ子どもは自信ありげに見えて実は自己肯定感がどん底なので、その裏で「あなたは大切」「価値がある」を伝え続けることが更に重要である。
とにかく基本は、美点凝視、真剣な良い聞き手に注目して話すことに集中することである。
要は、全ての人が、自分を認められたいのである。
良い行動で認めれば、良い方向に伸びる。
悪い行動で認めれば、悪い方向に伸びてしまう。
そして指導者の立場は、その強い実行力をもっているという自覚が必要である。
話を聞かないという悩みは、教育に関わる人にとって永遠の課題である。
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