今日は、クリスマスなのに、いつも以上に真面目な話である。
宗教に関係なくクリスマスを祝う国だからこそ、今日書いてみる。
ある勉強会で「国家意識を教育せよ」という話があった。
直感で「何だか危ない話だ」と思った人がいるかもしれない。
でも、そういう風に感じてしまうこと自体が、日本の病巣かもしれない。
今回の勉強会から、自分の考えたことをシェアする。
日本は危機的状況にある。
1000兆もの借金を抱える中の被災地復興、領土と自衛、国内の諸問題。
いつの時代も、問題は山積である。
しかし、だから子どもにどうこうできるかと言えば、できない。
大人にだってすぐに手が付けられないのである。
関心を持つことは大切だが、子どもに危機感を持たせても意味がない。
子どもは、安心させてやる必要がある。
安心させるには、守る存在が必要である。
では、子どもは誰に守られているのか。
当然、読んで字の如く「保護者」である。
多くは「親」だろう。
その親も、自分の暮らす地域社会に守られ、生活している。
地域社会も、市や県といった単位の大きな社会によって守られている。
では、県も含む大きな社会を守っているものは何か。
国、つまり国家である。
国家には「家」という字が入る。
家なのである。
英語でいえば、「ホーム」である。
帰るべき場所である。
誰しも、国家に守られている。
国家は、国民を愛し、守る。
国民も国家を愛し、守られる。
当然の関係である。
子が親を、親が子を愛するのは当然である。
こういう「当然のこと」がいくつかあり、そこが揺らぐと全てが崩れる。
だから、当然のことは当然なのである。
議論不要である。
子どもの通う「学校」という社会では、子どもは先生を敬い真剣に学び成長する。
それに対し先生は子どもを真剣に愛し教育する。
至極当然であり、その為の機関である。
(尊敬されるよう、教師は人一倍努力する必要があり、子ども側もそれに応える努力が必要だ。)
市政は市民を第一になされ、市民は市に税金を払い、自分の市や町を愛するため行動する。
お祭りなんかもその一つだろう。
互いに、真剣にやる。
どれもこれも当然のことである。
国民は国家を愛する。
どの国でも当然なされている教育である。
自分の国が嫌い・誇りを持てないというのは、自分自身への否定につながる。
世界の子どもの自尊心アンケート調査の結果が、それを如実に物語っている。
日本の子どもがそこで世界ダントツ最下位なのは、社会のせいである。
つまり、学校教育の責任である。
国を愛する心を育てる。
国家意識を教育する。
戦時中の「国のために死ね」という歪曲した愛国心教育とは、意味が違う。
純粋な、人間として当然の教育の意味としてである。
外国直輸入のクリスマスを祝いながらも、日本人としての誇りは持っていたい。
クリスマスを幸せに祝えるのも、日本国民だからこそである。
2012年12月25日火曜日
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