2012年12月25日火曜日

国家意識を教育する

今日は、クリスマスなのに、いつも以上に真面目な話である。
宗教に関係なくクリスマスを祝う国だからこそ、今日書いてみる。

ある勉強会で「国家意識を教育せよ」という話があった。
直感で「何だか危ない話だ」と思った人がいるかもしれない。
でも、そういう風に感じてしまうこと自体が、日本の病巣かもしれない。

今回の勉強会から、自分の考えたことをシェアする。

日本は危機的状況にある。
1000兆もの借金を抱える中の被災地復興、領土と自衛、国内の諸問題。
いつの時代も、問題は山積である。
しかし、だから子どもにどうこうできるかと言えば、できない。
大人にだってすぐに手が付けられないのである。
関心を持つことは大切だが、子どもに危機感を持たせても意味がない。

子どもは、安心させてやる必要がある。
安心させるには、守る存在が必要である。

では、子どもは誰に守られているのか。
当然、読んで字の如く「保護者」である。
多くは「親」だろう。
その親も、自分の暮らす地域社会に守られ、生活している。
地域社会も、市や県といった単位の大きな社会によって守られている。
では、県も含む大きな社会を守っているものは何か。

国、つまり国家である。
国家には「家」という字が入る。
家なのである。
英語でいえば、「ホーム」である。
帰るべき場所である。

誰しも、国家に守られている。
国家は、国民を愛し、守る。
国民も国家を愛し、守られる。
当然の関係である。

子が親を、親が子を愛するのは当然である。
こういう「当然のこと」がいくつかあり、そこが揺らぐと全てが崩れる。
だから、当然のことは当然なのである。
議論不要である。

子どもの通う「学校」という社会では、子どもは先生を敬い真剣に学び成長する。
それに対し先生は子どもを真剣に愛し教育する。
至極当然であり、その為の機関である。
(尊敬されるよう、教師は人一倍努力する必要があり、子ども側もそれに応える努力が必要だ。)

市政は市民を第一になされ、市民は市に税金を払い、自分の市や町を愛するため行動する。
お祭りなんかもその一つだろう。
互いに、真剣にやる。
どれもこれも当然のことである。

国民は国家を愛する。
どの国でも当然なされている教育である。
自分の国が嫌い・誇りを持てないというのは、自分自身への否定につながる。
世界の子どもの自尊心アンケート調査の結果が、それを如実に物語っている。
日本の子どもがそこで世界ダントツ最下位なのは、社会のせいである。
つまり、学校教育の責任である。

国を愛する心を育てる。
国家意識を教育する。
戦時中の「国のために死ね」という歪曲した愛国心教育とは、意味が違う。
純粋な、人間として当然の教育の意味としてである。

外国直輸入のクリスマスを祝いながらも、日本人としての誇りは持っていたい。
クリスマスを幸せに祝えるのも、日本国民だからこそである。

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