2012年12月6日木曜日
大松尾帝国憲法にも一分の理
前回紹介した大松尾帝国憲法指導案。
お陰様で反響をいただき、ありがたい限り。
ところで、この憲法、無茶苦茶ながら、一分の理もある。
授業でも、「この憲法でいい」という児童が少数派ながら存在した。
また「一部ダメだけど、あとはいい」という意見もあった。
どういうことかというと、「国民の意見をきかなくていい場合もある」ということである。
極論、命が関わる場面では、上からの命令をきく方が安全である。
個々がバラバラに動くと危ない。
学校での集団避難時には、命令に従い、一人残らず全員が安全に逃げることだけが目的である。
リーダーが「どうやって逃げようか?」などと民主的にやってたら被害が広がるだけである。
集団が迷う場合、リーダーの決断で動くしかないのである。
もう一つは、集団の質が低く、秩序が保たれていない時。
リーダーが畏怖の念を抱かれながらでも、まずはしっかり統率する。
社会なら、犯罪を犯せば、拘束される。
民主主義下においても、自由権が制限される訳である。
日本国憲法にもそう規定されている。
公共の福祉に反さないことが、基本的人権の尊重の条件である。
だから、学級がルールを平気でやぶる集団なら、帝国憲法の方が安全だという訳である。
集団の質が高まったら、だんだん民主的にしていく。
子どもからも似た意見が出た。
当然きくべきことをきかないなら、厳しくすべきだという意見である。
一分の理があると思う。
だから、大松尾帝国憲法を見た先生は、「これ、うちの学級かも」と思う人が多いはずである。
秩序が保たれない内は、どうしても「先生君主」でないとうまくいかない。
むしろ、君主にすらなれないで困る人の方が多いようである。
先生君主でやっていくと、一見うまくいく。
最初の内はこれでいい。
しかしこれであぐらをかいていると、国民(子ども)の水面下に不満がたまってくる。
爆発するのが、翌年の担任の時があるので、注意しなくてはならない。
だんだんと民主主義、日本国憲法側にシフトしていけるよう、学級集団の質を高めていきたい。
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