人間は、表現がしたい。
話をきいてもらったり、書いて表現したり。
ダンスや歌も表現の一種である。
何かしら、表現の欲求がある。
面談でよく「うちの子は手を挙げますか」ときかれる。
発言する=良いという図式がある。
しかし、書くのも立派な表現である。
往々にして、よくしゃべる子どもは書くのが苦手なことがある。
逆も然り。
大抵、発言しない子どもは、書く方の表現に優れている。
発言に重きを置くのは、わかりやすさからだろう。
コミュニケーション能力が求められる時代だからそれもわかる。
でも、面談で保護者にきかれたら、良い方を伝えたい。
発言しない分、書いて表現していますよと。
何でも両面あるのだから、良い方に光を当てて伝えたい。
2012年8月16日木曜日
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