前回の続き、野口芳宏先生の学習会からの学びを。
何度も言われていることだが「落差の顕在化」について。
自分によくあるミスなので、敢えて紹介したい。
ある発問をする。
例えば「この短歌から見えるものを、文中の言葉を使って全て書き出しなさい。」
子どもは言われた通りに書く。
この作業の後、教師はどうするか。
ついやってしまうのが、「では、この列一人ずつ発表。」というパターン。
(最もまずいのが「発表してくれる人?」パターン。無意図・無意識・無目的。)
一人が一つずつ言う。
これは、たくさんの子どもが発言できるので、一見良いが、問題がある。
落差の顕在化ができない。
「まだあります」と付け加えていき、だらだらした授業になる。
どうするか。
まず、書けた「数」を問うて挙手させる。
「1つ」「2つ」・・・
1から5ぐらいまで出る。
(0はいけない。全員参加の原則に外れる。机間巡視の時点で指導して1つは書かせたい。)
実は正解は、3つである。
この時、3以外に手を挙げた子どもは、誤答ということになる。
(3の子どもも、誤答の可能性はある。)
この時点で「落差の顕在化」ができ、初めて「指導の方向」が見える。
全員正解しているようなら、もともと問う必要がなかった。
すぐ次に進める。
逆に、半数以上が誤答の場合。
問いとして適切であったと判断できる。
子どもの「不備・不足・不十分」をついた問いだったといえる。
次に、「3つ」に手を挙げた子どもを指名し、一気に3つ言わせる。
この3つが正解である場合と不正解である場合がある。
ここで初めて「違う意見は?」を問う可能性が出る。
これは、本来机間巡視で把握した上で、意図的に指名するのが望ましい。
もうほとんど正解の3つが指摘されている状態なら、先に述べたように正解を3つ言わせて次にいく。
あえて誤答で他の解を引き出して正解を探させる場合と、流す場合があっていい。
ちなみに「3つでも4つでもいい」というような曖昧さはいけない。
子どもの誤答を明確に否定できないのであれば、それは単に教える側の勉強不足である。
(はっと気付かされるような素晴らしい解を出す子どもが育った、というのは嬉しい。
しかし子どもに負けているのは事実なので、やはり勉強不足の感は否めない。
知っていてわざと教師が間違える、という高段者がやることとは別である。)
とかく発問は「意図的・意識的・目的的」で。
「無意図・無意識・無目的」の発問をなくしていく。
落差を顕在化させるような発問をして、子どもの向上的変容を毎時間保障したい。
2013年2月18日月曜日
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