2017年7月9日日曜日

結果を価値付ける

休日ということでやや長文。
運動会が終わった時に書いた記事。

陸上等の大会関係でも毎回同じようなことを言うが、結果の取り扱いが重要である。
特に、勝った場合(望む結果が得られた場合)こそ要注意。
結果の価値付けに失敗すると、傲慢になったり「ロス」状態になったりする。

結果への価値付けは、日常の授業や生活からして行う。
例えば、テストで100点をとったとする。
100点であることを褒める。
すると、100点そのものに価値を見出す。
積み重なると、100点以外に価値はないと思うようになる。
結果、100点でない時に無駄に嘆いたり、他者に対し下に見たりするようになる。
100点をとらないとダメな子だと思われるという変なプレッシャーを抱くこともある。
100点を取るために、カンニング等の不正すら用いるようになる。
競争心が良くない方向にはたらく。

100点をとったら、その過程を褒める、というより、認める。
とりあえず「おめでとう」を言ったら、その後の過程を価値付ける。
「普段からよく練習したからだね。」
「〇〇さんがよく教えてくれて、それを素直に受けた結果が出たね。」
「前回の反省を生かしたからだね。」
何でもいいが、とにかく結果でなく、過程に価値付けをする。
そうすると、100点でなくても成長につなげられる。

例えば、多数が立候補して何とか応援団やリレーの選手に選ばれたとする。
良かったね、おめでとうで済まさない。
なったからには、教えるべきは、責任感と感謝である。
人に教える立場になる以上、相手の数倍がんばる責任が課される。
その場合、普段どんなにだらだらだろうが、それは許されない。
一緒にがんばる仲間や、ついてきてくれるみんなへの感謝も忘れさせない。
選ばれたという結果以上に、選ばれてからの方が大変なのだと自覚させる。
「勝てば官軍」のような態度を諭していく。

結果への価値付けは、技術である。
知らないとできない。
人間は、野放図の、自然のままでは、望ましい方向に行かない。
(または、望ましくないように方向づけられている可能性がある。)

小さい頃は、「あんよが上手」で構わない。
子どもにとって、できるようになること以上に、それを見てくれているということ自体が喜びである。
しかし、「〇〇ができるからすごい」をいつまでも続けていると、そういう価値観を植え付けることになる。
できるからすごいのではなく、子どものがんばりそのもの、存在、行為そのものを普段から認める。
だからこそ、結果がうまくいったら「おめでとう」だし、うまくいかなくても「がんばったね」といえる。

この「できる」「成功する」への親の盲目的価値付けは、我が子が幼い頃から見てとれる。
我が子がなかなか歩くようにならなくて、または喋るようにならなくて、不安になる親は多い。
(気持ちは痛いほどわかる。何か実は問題を抱えているのではないかと、不安になる。)
逆に、少し早く何かができる我が子に、得意になる親も多い。
ただ両者とも、比較対象は「他人」である。
その子自身ではない。
大体、多様なはずの人間が、みんな一律に同じように成長したら気持ち悪い。
兄弟すら全く異なる成長曲線を描く。
しかし、頭ではわかっていても、比べてしまうのが親心である。

そんな時でも、我が子のがんばりを見てとれるか。
遅いなりにがんばる我が子を、認めるのは忍耐がいる。
「認」=「言」を「忍」ぶことである。
つい望む結果を求めてしまう我が口を、どう使うかである。

学級担任でも同様。
つい結果の方を望んでしまう。
しかも、多様な目の前の一人一人に、一律な結果を。
教育内容の達成目標があるからとはいえ、同じアプローチで同じ結果を求められるはずがない。
運動会の競技一つとったって、苦手な子どももその子なりにがんばっているのである。
どんな結果でも、認めてあげたい。

登山は、登る時ではなく、下りる時に事故が起きるという。
良い結果が出た時こそ、取り扱いに注意する。
望む結果に至らなかった時こそ、成長の糧にする。

結果への望ましい価値付けは、大人が子どもにしてあげられる最高のプレゼントである。

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