2015年3月17日火曜日

「わからない」を哲学する

今回は、少し哲学的な話。

授業をしても「わからない」子ども。
さて、どう教えるか。
そもそも、「わからない」とはどういう状態なのか。

ここについて、興味深い文章を見つけた。
次の本から引用する。
宇佐美 寛 『私の作文教育』 さくら社 2014年 P.81
http://www.sakura-sha.jp/skillup/sakubun-kyoiku1/
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(引用開始)
「わからない」とは、実は、このようにある程度、あるしかたで「わかっている」ことが何らかあるということなのだ。
だから、その「わかっている」ものとの関連で「わからなさ加減」を言うべきなのだ。
一歩つっこんで問わねばならないのだ。
(引用終了)
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学生の「わからない」という言葉に対する回答の一部である。
つまり、「わからない」と言うのは、「わかっている」前提が他にあるという論理である。

この文章を読んだ時、頭の中がスッと晴れたような気がした。
私たちが何かを「わからない」という時、必ず「わかっている」前提がある。

例えば、赤ちゃんは多くのことに対して「わからない」という認識がない。
しかし少し成長すると「わからない」人に対して泣く。
「わからない人」を区別できるのは、「お母さん」を「わかっている」前提で起きる。
つまり、「何かがわかっているからこそ、わからないという認識が起こる」ということである。
ソクラテスの「無知の知」にも通ずる。

次号、もう少し身近な例で考えていく。


腹が立つ時には

最近、腹が立つということが減った。 なぜか。 自分自身の怒りを眺められることが増えたからである。 腹が立つ時を考えると、大抵が「痛い」ところを突かれた時である。 もう一つは、自分が否定された、妨害されたと感じた時である。 要は、ほぼ全てが、自己防衛本能の発動である。 ...

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