2023年8月27日日曜日

夏休みの研修をどう生かすか

 夏は研修やセミナーが盛んである。

多業種、各方面で開催されるが、特に教員関係のものは多い。

夏休みに子どもがいない間は、主に研修期間という位置付けだからである。


これは、教員にとっての夏休みの楽しみ方の一つともいえる。

社会科の大家、元筑波大附属小教諭の有田和正先生は、旅行も兼ねてネタ集めに奔走していたという。

数々の素晴らしい授業実践群は、これら休日を含めた日々の研鑽の賜物である。

やり方次第で、旅行すら立派に研修になりうる。


そんな中、セミナーは傍目にもわかりやすい研修の機会である。

わざわざ休日に身銭を切って時間を使ってまで学ぼうというのはコストが高く、並々ならぬモチベーションである。

特に遠方まで行ってお金を払って学ぶような人は、少なくとも「普通」ではない。


コストをかける分、期待が高まる。

時に、相手が、自分の望む答えをもっているように感じてしまう。

悩んでいるほど「どうやるのが正解か」と他者にききたくなる。


ただこの姿勢だと、なかなかうまくいかない。

うまくいかなくても、変われなくても、相手次第だからである。

実は、どんな研修やセミナーであっても、学び手次第というところがかなりある。

この夏の新刊『学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』にも書いたが、受け取る主体は常に「聞き手」にあるからである。


特に「有名講師」と言われる人に学ぶ時は、消化の仕方が肝である。

相手の実績があるだけに、それを真似すればうまくいく気がしてしまう。


実際、やってみるとわかるが、そううまくはいかない。

「変わるぞ!」と熱く燃えて決意したにも関わらず、続かない。

それは、そもそも相手と自分のもつストーリー、文脈が違うからである。


物語に例えると

「普通の暮らしをしていた若者がひょんなことから事件に巻き込まれ、苦労の果てに成功する」

というタイプのストーリーと、

「生まれながらの王族が、内政の困難に立ち向かいながら更なる成功を手にしていく」

というストーリー。

両者の成功譚は全く別物である。

主人公のもつ、そもそものベースも環境も全く違うからである。


様々な地へ行くとわかるが、学校の抱える課題も地域で全く違う。

先日の調査結果を受けて「学力向上」が主な課題になっている地域がある。

一方で、所変われば、「貧困」が問題になっている地域もあれば、「同和問題」が筆頭に来ている地域もある。

私学と公立でも違う。

どこでも同じ手法が同じように通用する土台がないのである。


その研修やセミナーから学んだことを、自分なりにどう解釈して用いるかが全てである。

正解は自分で作る。

学んだ内容とは全く逆の正解を作ることもあり得る。


「この道でみんな成功してますよ」

という話を聞いて、

「それならもうこの道を行っても自分にはチャンスがないから、これ以外を行こう」

と考えるのも自分次第である。


いずれにしろ、経験は意図的に積み、そこに整理を加えないといけない。

これは、師の野口芳宏先生が事あるごとに口にされている教訓である。


せっかくこの夏に学んだ内容、自分なりに主体的に活用していきたい。

2023年8月19日土曜日

発信者には先行実践の調査と明示が必須

 私が長らく、学級経営において大切にしている大原則がある。


真面目な人に損をさせない。

一生懸命がんばる上位2割にこそ注目する。


これらの考えが結構広まってきたようである。

見ると、私以外の誰かも

「真面目な子に損をさせないことが大切です」

と断言して書いている様子を見受ける。


さて、これらのことを書いたり発信する時には、ルールがある。

それは「引用元の明示」である。

論文、書籍、メルマガ、SNS、媒体を問わず「引用元の明示」は、発信の大原則である。


「それは元々誰の話なのか」をはっきりさせるのが、文章を書く上での大原則のルールである。

「自分が思いついた」と思った場合でも、関係する文献、あるいはせめてネットで先行実践を調べてから発信するのが最低限度のモラルである。

そう思ったほとんどの場合、以前に自分が見聞きした文章の記憶からの着想(あるいはそのまま)だからである。


これは自戒の念も込めており、私自身の文章にも当てはまることである。


例えば、『不親切教師のススメ』は新しいことを書いているように思える。

自分でも、色々と考えて書いたつもりである。

しかし実際には、かなり様々な人々の思想に影響を受けている。

思い出せるものはなるべく調べて明記したつもりであった。

しかし、それでも甘いのである。


例えば、この本の参考文献に載せるべきだったと後悔している本がある。

『不親切教師のススメ』と同じく、さくら社刊行の、次の本である。


学級づくりの教科書』有田和正著 さくら社


この本の「教育的良心が足りない」?という項p.154に次のように書かれている。

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(引用開始)

手とり足とりの指導が、子どもにとってよいのであろうか。

わたしは、子どものために尽くすということは、手とり足とりの指導ではなく、ひと言少ないことや、一手少ない指導だと考えている。子ども一人ひとりを主体的に育てることが教育の目的なら、指導過剰はマイナス効果である。

(中略 )

子どもが困っていると、すぐ手を出したくなる。そこをがまんすることが、本当に子どものためになるのである。

(引用終了)

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本に力強く「花丸」の書き込みまで付けてある。

『不親切教師のススメ』は、ここから相当に影響を受けていると考えて間違いない。


2011.8.25発刊で、発売直後に初版を購入してまず一気に最後まで読んだ記憶がある。

表層からは内容についての細かな記憶は薄れていたが、深層で完全に覚えていたようである。

有田実践については『不親切教師のススメ』にも宿題の項でふれたが、今思えば主要な参考文献としてこの本を載せるべきだった。

もう間に合わないため、せめてここの場に明記し、次回作では明言しようと思う。


ちなみに冒頭に挙げた「上位2割に注目」は、イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートの「パレートの法則」からの気付きである。

セットで「下位2割に引っ張られない」という点もここから着想し、提案している。

学級崩壊とは、下位2割が言うことを聞かない状態ではなく、上位2割にそっぽを向かれた状態を指すからである。


この「学級崩壊とは・・・」という考え方のベースは、TOSS代表の向山洋一氏のものである。

また「下位に注目しない」というのは、特別支援教育で用いられる「意図的無視」という配慮からきている。

そしてのその考えのベースは、心理学におけるオペラント条件付けの「負の強化」というものからである。


つまり、どれもこれも私の完全オリジナルな訳ではない。

他の研究や実践から着想を思い切り得ている。

その学びを消化した上で、実践を通して実感したものを言語化しただけである。

私の「真面目な人に損をさせない」という学級経営の大原則も、この「上位2割」の概念から派生した考えである。


そう考えると、「自分の完全オリジナルな考え」などというものは、ほとんど存在しないのかもしれないとも思う。

師の野口芳宏先生もそのように仰っていた。

全ての原理原則は、孔子やキリスト、釈迦あたりに言い尽くされており、先人がどこかしらで主張しているものばかりである。


だからこそ、発信者はそこに対し、謙虚になる必要がある。

誰でも何でも発信できる現代にこそ、個々の情報モラルや情報リテラシーが重要になる。

自分の考えはどれで、引用・参考文献はどれなのか、明示する必要がある。

(ちなみに引用と参考は全く違う。引用は元のそのまま、参考はあくまで参考である。

これも、初任の頃に向山洋一氏の書籍から学んだことである。)


情報を得る場合も、それがどこの誰なのか、名前や立場を明示して発信しているのかどうかが最も大切である。

当たり前だが、世に知られた人が立場をもってする発信は、そうでない人に比べて、断然責任が重い。

政治家や有名人が批判されるのは、そういう意味で避けられない必然である。


そして批判一つとっても、批判者側が名前や立場を明示してこそ責任と価値が伴うのである。

匿名の無責任な文章には、宙を漂うような重さしかないのである。


情報を得る側も、そういう視点で見ないと、色々と見誤り、誤ったものが世に広まる。

ニュースに悪い情報の方が多く飛び交うのは、それを無意識に歓迎する読者が多くいるからこそである。


SNS上や書籍上の有象無象の教育情報に、気になるものが増えてきたので、記しておいた。

もしも私の文章に対しても、考えに共感して広めたいという有難い意向がある方は、引用元を明示するか、ご一報を頂ければ幸いである。

2023年8月12日土曜日

音読が大切

今更ながらだが、音読の大切さについて。


最近、サークルでも校内研修でも話題になったのが、音読の重要性である。

特に国語を専門とする先生から、その重要性について、以下に書くように強調された。


そもそも、人間の言語獲得のプロセスは音声を聞き、それを口に出すことからである。

いきなり書き文字から入る訳ではない。

言語獲得のプロセスにおいて、音声言語が文字言語に優先するのである。


音読をすると、理解度がはっきりとわかる。

国語で教科書の文章をすらすら読めるような力を育てることが、他教科へ波及する。


例えば、算数の問題が解けない子どもに問題文を声に出して読ませようとすると、それ自体が読めない。


「読めない」の内訳は様々である。

・漢字が読めない

・その言葉自体を知らなくて読めない

・記号が読めない


特に、漢字が少なく平仮名交じりの文の多い低学年では、その言葉自体がわからないことが多い。

(低学年の教科書の混ぜ書き文章は、大人からしても読みにくい。)


またグラフなど「読み取る」という作業が入ることも多く、ここも音読させると理解度がわかる。


2年生の「時刻と時間」の学習などは最もわかりやすい。

時計を見て「9時」と読むところを「12時」と平気で読むなんてざらである。

短針が「〇時」→長針が「〇分」の順に読むこともわかっていないから、読みようがない。

時刻自体が読めないのだから、時間を問う問題ができなくて当然である。


そして「読めない」状態のままテストになれば、当然問題文が自力で読めない。

何を問われているかわからないのだから、解けなくて当然である。

つまり、内容への理解度どうこう以前の問題が存在しているのである。


普段から自力で問題文を読むという習慣が必要なのである。

授業中も、声に出して問題文を読ませる必然性がそこにある。


5年前、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井 紀子著 東洋経済新報社)という本が話題になった。

タイトルを見て「そんな大袈裟な」「そういう子どもも中にはいる」ぐらいに思った人が多くいたと思うが、これは事実である。

調査をするとわかるが、かなりの割合の子どもが、きちんと教科書を読めない。

そして、その状態でそのまま大人になっているのである。


これは学校側としてはお便り一つ配るにも「本当に読めるかどうか」という視点が必要ということである。

問い合わせに対し「お便りに書いた」というのはこちらの言い分としては正しい。

しかしながら、あの大量の文字情報から本当に必要な情報を読み取るということを誰しもできるか、自問する必要がある。

(むしろ、発行している自分たちですら読むのが大変なのではないだろうか。

例えばどの学校であっても、新入生の保護者向けの説明資料などは、文字地獄である。)


話を戻すと、小学校、特に低学年段階において、音読の重要性は強調しすぎることはない。

高学年でも重要であるが、それも低学年での基礎固めがあった上で成り立つものである。


大人同士の読書会でも、音読を行う。

上手な人によって全力で読まれる文章の音声を聞くのは、耳にも大変心地良いものである。

自分自身の音読の向上にもつながる。

即ち、それが子どもの音読の向上にもつながる。


音読向上につながる実践は、数多くある。


例えば長らく「詩文の暗唱」の実践をしていた。

しかしコロナの影響で近距離で音読を聞くことができず、最近めっきりやめてしまっていた。

こちらも、再開する方向である。

確実に語彙力とリズム感が身に付き、子どもの学力向上につながる。

(先日講師として訪問させていただいた都内の学校では、校長先生が全校児童の詩文暗唱を聞いて認定していた。

素晴らしい取り組みであると思う。)


AI全盛の時代になろうと、この点は変わらない。

言語能力の獲得は必須である。

文字情報を読めないのでは、情報獲得の量に圧倒的な差がつくのは必然だからである。


今、新しい様々な取り組みがどんどん生まれている。

しかしながら、温故知新の言葉の通り、古くから残ってきたものには価値がある。

しばらく、感染症対策によって歌や音読が禁止されてきたが、その束縛もこの5月で完全に終わりである。

音読の重要性が、今こそ見直されるべきではないかと考える次第である。

2023年8月5日土曜日

夏休みの宿題とChat gpt

 夏休みの読書感想文等宿題に関して、文科省よりChat gpt使用についての見解が出された。

それ以前に、Chat gptは13歳以下だとそもそも使用できず、18歳未満には保護者の許可が必要というルールがある。

以前にも書いた通りで、人間は「ダメ」と言ったら止めるものでもないというのが現実である。

メルカリ等に夏休みの宿題代行業者が氾濫して大儲けした現状を見れば明らかである。


さて、この活用は読書感想文コンクールに限らない。

例えば、夏休みの自由研究にも利用できる。

大人の権限でちょっとChat gptに命令して、ものの数分でアウトラインを出してもらった。

以下、Chat gptの出してくれたアイデアである。


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タイトル:浮力の不思議

はじめに

浮力の不思議についてみんなに紹介します。みんなが水に入ると浮くこと、それは浮力という不思議な力が働いているんだよ!この研究では、浮力の仕組みを楽しく学んでみよう!


浮力とは

浮力って何だろう?実験を通じて浮力の不思議な力を見つけ出そう!水に入る物体がどうして浮くのか、どうして沈むのかを調べてみよう。アーキメデスの原理という言葉も覚えようね。


実験1:異なる物体の浮力を比較

いろんな物体を水に浮かべてみよう!例えば、おもちゃや果物、コインなど。それぞれの物体が水に浮く理由を考えながら、不思議な現象を観察しよう。もしかしたら、大きさや形が浮力に影響を与えるかもしれないね!


実験2:浮力と重力のバランス

水に浮かべた物体には浮力が働いているけれど、重力という力もあるんだ。水に浮かべた物体の重さを計って、浮力と重力のバランスを確かめてみよう。ちょっと難しそうだけど、一緒に考えよう!


実験3:船の浮力の原理

船は大きな物体だけれど、なぜ浮くのかな?紙船やアルミホイル船を作って、水に浮かべてみよう。どんな形の船が一番浮きやすいかな?不思議な船の浮力の原理を見つけよう!


実験4:浮力を利用した物体の設計

浮力って素晴らしい力だね!実験を通じて浮力を利用した物体や構造物の設計を考えてみよう。例えば、浮き輪や船、水中のおもちゃなどを自分で考えて作ってみよう!どんな物体が浮力を最大限に使えるかな?


結果と考察

実験の結果をまとめよう!浮力の不思議な力を見つけたり、物体の形や大きさが浮力に与える影響を考えたりしたね。浮力の大切さや日常生活での活用方法についても考えてみよう。


まとめ

浮力の不思議を調べて、たくさん学びましたね!水に浮く現象や物体の設計など、楽しいことがたくさんありました。浮力の力って、みんなの生活にも意外と関係しているんだよ!これからも科学の不思議を追求していこうね!


参考文献

浮力に関する本やウェブサイトのリストを紹介します。これらの情報源からもっと面白いことを学びましょう!


付録

実験の写真や図、興味深い発見のメモなどをまとめた付録を用意しました。楽しい研究の記録を残しましょう!

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何をしたらいいかわからない子どもにとって、これはかなり助けになる。

(そもそもインターネットサイトの存在自体が、相当な手助けになるが。)

このアウトラインに従って実際に実験してみれば、面白そうである。


またそれぞれの項目について「書いて」と言えばここもある程度までは書いてくれる。

子どもが使用禁止だとしても、夏休みの自由研究は実質親の宿題という面もある。

どうしていいかわからない親が手助けのために使うことは十分に有り得る。


明確に「不正」と明言されている点については、使用できない。

しかし時に、設定されたルールの側がおかしいということも考えるべき点である。

ルール設定者(権力者)の都合や好みという面がないかは、常に疑うべきところである。


スポーツの世界はこれが顕著である。

オリンピックの歴史でも、日本が活躍して金メダルをとるとルールが変わるということは度々起きている。

(オリンピックはもはや爽やかなスポーツの祭典とは言い難い、醜悪な面が方々に見えてしまい、残念なことである。)

工夫した側の努力を否定するように、あっさりとルール変更がなされる。


Chat gptをフル活用できるリテラシーのある教員や大人はどれぐらいいるのだろうか。

実際、子どもの方はどうなのだろうか。

良い道具がある時にそれを活用する能力は、旧い制度を守るより大切である。


学校は、新しいものを活用する姿勢が必要である。

そのためには、古いものを捨てる必要がある。

旧態依然とした学び方やその学習内容を抱えたままでは、それができない。


学習指導要領がある以上、内容についての変更はできないが、工夫はできる。

昭和の時代から変わらないのではなく、今の時代に合った形の夏休みの宿題というものを考えてもよいはずである。


自由研究等そのものを否定している訳ではない。

本当に「研究」して大発見をしてしまうすごい子どもたちが存在することも認めている。

だからこそ、課題へ取り組むかどうかも個人の選択にして、使える道具はフル活用していいのではないかということである。


学校教育の実際は、基本的に保守である。

そして「新しいものは怖い」という感覚は「古いものをそのままにしたい」という感情と裏表である。

(ただ一番悪いのは、古いものを抱えたまま新しいものをどんどん取り入れることである。

 それでは、クローゼットがパンパンになって、着られる服もダメになる。

 新しく買うなら古いものを捨てるのが鉄則である。)


せっかく手助けしてくれるものは使った方がよい。

また新しい時代の価値観の流れは、拒否するだけ無駄である。

それを取り入れていくしかない。

だから、古いものを捨てるしかない。


この令和の新時代に、昭和時代の夏休みの宿題が「そのまま」残っていることの方がおかしい。

生成AIを読書感想文に使うなどうこう以前に、学校の在り方のおかしさの方が気になって仕方ない昨今である。

2023年7月30日日曜日

問題解決集団を育てるクラス会議

 ここ最近、研修等でクラス会議について話すことがまた多くなってきた。

自治的学級づくりは長らくの中心テーマなので、当然といえば当然である。


クラス会議は、円になって行われる。

これは「距離の平等」=「全員の立場の平等」を象徴している。

フラットな関係である。


また、輪番で発言するというのも基本的なルールである。

つまり「発言機会の平等」が保障されている。


「発言に対して否定をしない」というのも基本ルールである。

(自分の学級では、反対ではなく「心配」という表現で発言するように指導している。)

つまり、立場によらない自由な発言が保障されているということである。


これらは、問題解決能力が高く、幸せで生産的な組織の諸条件でもある。

(参考:『予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ 』 矢野和夫著 草思社


つまり、クラス会議で設定されている基本ルールは、組織論から言ってもかなり合理的なルールといえる。

元々がアドラー心理学の「共同体感覚」を育むことが目的となっていることからも、納得である。


この逆をいけば、クラスとしてあまり良いものにならないといえる。


1 子どもの中に立場の上下がある

2 発言権に偏りがある

3 意見が否定される


ちなみに誤解なきよう一応付け加えるが「否定しない」というのは、授業で誤答もそのまま「いいね!」と認めるということではない。

1+1=3という子どもがもしいたとしたら、その意見自体は受け止めるが、そこは確実に修正指導が必要である。

そうではなくて、「自分はこうしたらいい思う」というアイデアを出したこと自体が否定されないということである。

それが「最適解」ではなくとも、一つの大切な意見として認められるということである。


非生産的で全員が幸福でない組織にありがちなのが

「まだ若造の分際で」「わかっていないなぁ」「また変なことを言って」という態度をとる人間の存在である。

こういう雰囲気、空気があると、確実に非生産的な組織になる。

これは、子ども集団も同じである。

(「全員が」とわざわざ付け加えたのは、そこでマウントを取れている人間は幸せでいい組織だと思い込んでいるからである。)


つまり、その大原則を外さないクラス会議を続けていくことで、クラスは確実に良くなっていく。

難しいのが、その基本ルールの徹底である。

放っておくと、すぐに発言が偏る、否定的な言動をとるといった事態が起きる。

それまでそれを「当然」と考えてきた子どもに指導するのは、なかなかの困難が生じる。(対大人ではもっと困難である。)

そこへの指導を、いかに介入を少なく、かつルールを担保していくかが、学級担任の仕事になる。


クラス会議は、やってみること。

それに尽きる。

できるかできないかではなく、クラスを幸せな問題解決集団に育てるために、やる。


一番多い「どうしたらいいですか」という質問への誠実な回答は、それだけである。

2023年7月24日月曜日

学級運営の困難さの根本・本質とは何か

 前号に続き、ルールの大切さに関する話。


学級を運営する難しさが世に広まって久しい。

かつての「学校の教員ぐらいなら誰でもできる」という認識は、一変したといえる。


これは一面、教員の「専門職」としての地位が向上したともいえる。

誰でもはできないことをするのが専門職だからである。

(例えば外科医をアルバイトでもできると認識している人はいない。)


学級集団は「安全・安心でかつ学習が快適に行えること」が条件である。

学習指導要領上に教えることが定まっている以上、学級の全員が好き勝手に行動されては、学習が全く成り立たない。

(ただし、学童保育のような空間でさえ、安全・安心すら保障するのがなかなか困難なのが現実のようである。)


そこで「全員が素直で大人しくすごしてくれる学級集団」が前提であれば、誰でも運営できるはずである。

かつては「大人の言うことは黙って聞く」が通用した時代があったのかもしれない。


問題は、そうではない現実が多数あるからである。

ある程度の困難や複雑な事情を抱えた子どもが複数いる学級が相手であれば、専門性がないと、肉体的にも精神的にも、もたない。

また子どもの背後には多様な考えをもつ保護者もいて、そこへの対応力も問われる。


学校教員の本分は、授業による学力形成である。

では授業ばかり一生懸命にやっていればいいかというと、そうはいかない。

授業を容易には成立させないあらゆる要因が数多存在するからである。


そうなると、そこの対応への専門的知識も必要になる。

集団への指導法であり「学級づくり」と呼ばれるものである。


学級づくりにも定石は一応あるものの、授業と同様、ほとんどの場合その通りにはいかない。

指導が困難な学級において、イレギュラーな事態が常態である。

またそういった学級に限らず、全ての学級担任にとって、特別な支援を要する子どもへの知識と技能は必須である。


諸々の難しさを生む根本・本質は何なのか。

どういう状態だと「運営困難」と感じるのか。


例えば「学力が低い」は、学校の本分からして、確かに問題である。

問題ではあるが、子どもが「授業を一生懸命に受けて学習している」のであれば、改善の余地がある。

恐らく、それだけで教員がノイローゼになることはない。

学級運営が困難ということとは、全く別である。


例えば不登校ということについても、学級運営の困難さとは別である。

極端な話、不登校の子どもは学級に対し、何か悪いことをしているわけではない。

あるのは問題ではなく、その子どものために学校に来て欲しいという周囲の大人の「願い」である。

(ただしここも無理をすると、子どもだけでなく周囲の大人にとっても苦しさにつながる。)


子どもに「主体性がない」「無気力」というのも問題になる。

しかしこれも、それで学級担任が病気になるようなことではない。

より良い向上のためには必要だが、あくまでゼロであり、マイナスの要因とはいえない。


では、結局何が困難さの本質なのか。

昨今の学級運営において困難、苦しいといわれることの根本・本質は「暴力・暴言」及び「身勝手なふるまい」の存在である。

そこで誰かしらが傷つき、困った状態が生まれることである。

端的に言って「人を傷つけない」というグランドルールが守れないことにある。

今挙げた学力低下や不登校というような諸問題の根本も、ここに原因があることが珍しくない。


暴力全般は、言うに及ばない。

誰でも痛いことは嫌であり、これは幼児でも十分にわかる。

学校で理不尽な暴力を振るわれるのにわざわざ行こうと思う訳がない。


暴力・暴行とは、物理的な力を無法、あるいは不当な目的に使うこと全般を指す。

人に限らず、器物破損や物への不当な扱い等も暴行の一種である。

学級運営で考える場合、「ほうきを振り回して遊ぶ」や「消しゴムや鉛筆を折る」「もの隠し」なども暴行の一つであるといえる。


暴言の方は、より幅が広い。

人の受け止め方次第だからである。

傷つく思いや不快な思いをするのは誰でも嫌である。


何かができないことを揶揄する。

馬鹿にする、罵る。

汚い言葉を使う。

相手が嫌がる言葉を言って喜ぶ。


全て暴言である。


暴言を意思の力で防ぐのは難しい。

自分以外の他者への暴言も苦痛である。

音声については、聞きたくなくても聞こえてしまうというのが、さらに厄介である。


これらを防ぐ手立てはないのか。

暴力・暴言に対抗し、社会において現実的に秩序をもたらしているものは何なのか。

それが、ルールの存在である。


ルールは本来、安全・安心を担保し、明るく楽しい社会をつくるためのものである。

ルールが無ければ、そこにあるのは混沌と混乱である。


このブログ上では繰り返し述べているが、学校教育とはルールの学習そのものである。

何が正しく、何が正しくないのかを判断する力をつけることである。

そのためには、ルールを守るということの意義と良さを教えていく必要がある。


ルールを守ろうとする態度がモラルである。

ルールを守らせる指導と同時に、自ら守ろうとするモラルを育てる指導が必要である。


ルールを守るというのは、集団社会における前提として存在する必須事項である。

「守らなくてよい」というようなものは、もはやその時点でルールとはいえない。


例えば、民主的教育の一つとしての「クラス会議」を考える。

クラス会議においては、ルールが明確にある。

「全員に平等に発言権が回ってくる」

「発言中は黙って聞く」

「否定しない」

等々である。

ルールを守るということが前提に指導され、運営される。


ルールを担保するのは誰なのか。

学級においては明確で、学級担任その人である。

ここを譲ったり緩くしたりすれば、学級は確実に大変になる。


「楽しく自由な学級」を目指すほど、ルールの遵守は必須である。

暴言や暴力が横行する場に、楽しさも自由も存在し得ないからである。

乱暴な言動に対してはずばりと指摘し、指導する気概をもたねば、やがて馴れ合いになり崩れていくのは目に見えている。


ルール指導の肝は、線引きとけじめである。

「時間を守る」などは、この代表格である。

原則は「この線から出たらアウト」という単純なものである。

ダメなものはダメとはっきりと言えることである。


だからこそ、ルールは多くし過ぎないことが大切になる。

無駄に多いと、ぎちぎちになり、苦しくなる。

一方で、ある程度設定しないと、多くの不都合が生じる。

最低限の絶対のもの、ぎりぎりまで絞り込むことである。


その点で「人を傷つけない」は、全ての社会的集団におけるグランドルールでもある。


ルールを守る指導の大切さは、強調し過ぎることがない。

夏休み明けは、4月の最初に設定したルールを再度確認することを怠らないようにしたい。

2023年7月17日月曜日

ルールの誤学習をどうするか

 前号に続き、ルールについて。

前号の最後に書いた通り、学校における学びとは、ある意味全てがルールの学習である。


英語の「rule」を辞書で引いてみる。

「ジーニアス英和辞典」によれば

1 規則、規定、規約、ルール

2 習慣、常習;常のこと、通例、習わし

3 支配、統治;支配の期間

4 規則;公式、解法

5 定規、ものさし

6 標準、基準

7 法理;原則;規範;裁判所規則

8 罫、罫線


訳語を見るだけでも、かなりの意味が網羅されているのがわかる。


例えば「空気」というのもルールに関わっている。

「空気」とは「暗黙のルール」である。


前号に取り上げた「風習」も「慣例」も、ルールである。

教育を通して、きまりを身に付けることになる。


学習の解法や公式もルール学習である。

生活全般において「こうすればこうなる」ということを知るのもルール学習である。


例えば「人を傷つければ叱られる、周りと距離を置かれる」というのもルール学習である。

ここを誤学習することがある。

「騒げば注目してもらえる」「人をからかうとみんなが笑って喜ぶ」「悪いことをすると先生が話しかけてくる」等々である。


学校生活において、誤学習は確実に起きる。

これをいかに防ぐか、そしてどう修正していくかの2点が学級経営のカギとなる。


ところで、最近「Chat gpt」というものが一挙に注目を浴びている。

簡単に言うと、ロボットチャットである。

AIが質問に答えて、作文をしてくれる。

文科省もこの導入に向けた取り扱いのガイドラインを出すほどの勢いである。


今後、読書感想文はこれにとって代わられる可能性が高い。

(なお、この文章を書いたのは4月のことであり、7月現在、文科省からは読書感想文にChat gptを使用することは「不正」だと明言されている。)


例えばこのロボットに「〇〇の読書感想文を書いて」と頼んでみる。

すると、現時点ではとんちんかんな作品の読書感想文を書いてくるが、文章自体はきちんと書けている。


以下『きつねの窓』を「小学生ぽく」という注文をつけて、数秒でレスポンスされて生成された文章である。


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「きつねの窓」は、真山仁さんによる児童文学作品です。

主人公の「ぼく」と白いきつねが出会ってから、お互いを認め合って仲良くなっていく話です。


きつねは最初は怖かったけど、次第にお互いを理解し合い、いい友達になります。

きつねには人間にはない感性があり、それを通して自然の美しさも教えてもらえます。


でも、ある日きつねは人間に追われることになってしまいます。

主人公はきつねを守るために、勇気を出して奮闘します。

そこから物語は、主人公の成長やきつねとの絆が描かれます。


この本からは、自然や異なる生き物との関わり方を学ぶことができます。

きつねとの交流を通じて、思いやりや勇気を育んだり、大切なものを守るためには努力することが大事だと感じました。


文章がやさしくて、きつねと主人公のやりとりが楽しいので、読んでいてほっこりした気持ちになりました。

自然や動物が好きな人には特におすすめです!


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いかがだろうか。

冒頭からもはや別の作者で違う物語になっているが、これがもし正確に把握されるようになったら、という話である。

何なら、ベースの部分としてとりあえずロボットに書いてもらって、これに適当に修正して付け足しても完成する。

更に言うと、文章が気に入らない場合、注文をつけて「再生成」の命令をすれば、また違った文章を提案してくれる。


そうなると、自分で考えて書いた作文なのかの「不正」かどうかの判別がかなり難しい。

というより、自分で文章に修正を少しかけた時点で、ほぼ完璧に不可能である。


夏休みの読書感想文の「最優秀賞」が実はほぼロボットだったという事態になる日は眼前で、既に空想科学の世界ではない。

今(4月)の時点でこの性能なので、夏休み明けまでには相当成長しているはずである。

今年度、夏休みの宿題として読書感想文を出すべきかどうかは、検討に値する。

「真面目な子どもが馬鹿を見る」という事態になりかねないからである。

(「熱心な親」が「少し手伝った」作品が高評価されるというのと根本は同じかもしれない。

 夏休みの宿題は、子ども時代から大人になっても、いつも空虚である。)


このAIプログラムは、ディープラーニングによって機能改善していく。

みんなが改善の提案をする、即ち教育することで、ルール学習により、より賢くなっていく仕組みである。


この学習方法には欠点がある。

誰かが悪いことや誤ったことを教えると、それをデータとして学んでしまう。

誤学習である。

その数が一定数を越えると、それが正しいと思い込んでしまうのが大きな欠点である。


この誤学習を防ぐことは難しい。

悪意のある人間でも容易にアクセスできる以上、情報の混乱は避けられない。

集団で動けば「特定の思想」を学ばせることもできる。

ここに対しては、集団で修正をかけていくしかないが、いたちごっこになる可能性がある。


この学び方は、子どもが学ぶ場合と共通点が多い。

要は、所属集団がどういう思想をもっているかで、子どもがそれを自然と学ぶのである。

そしてそこに修正をかけられる存在が、教師である。


学級の最初は、子ども同士のつながりが希薄なことが多い。

そうなると、分断された空気に支配される。

「自分を守る」ために、放っておくとあまり関わらなくなる。

ここをつなげていくのが、担任の最初の仕事になる。


話があちこちにとんだが、要はルールに対しての修正とディープラーニングが大切ということである。

修正担当は教師だとしても、ディープラーニング担当は、子ども集団になる。

よりよいルールを学べる集団に育てていきたい。

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