今更ながらだが、音読の大切さについて。
最近、サークルでも校内研修でも話題になったのが、音読の重要性である。
特に国語を専門とする先生から、その重要性について、以下に書くように強調された。
そもそも、人間の言語獲得のプロセスは音声を聞き、それを口に出すことからである。
いきなり書き文字から入る訳ではない。
言語獲得のプロセスにおいて、音声言語が文字言語に優先するのである。
音読をすると、理解度がはっきりとわかる。
国語で教科書の文章をすらすら読めるような力を育てることが、他教科へ波及する。
例えば、算数の問題が解けない子どもに問題文を声に出して読ませようとすると、それ自体が読めない。
「読めない」の内訳は様々である。
・漢字が読めない
・その言葉自体を知らなくて読めない
・記号が読めない
特に、漢字が少なく平仮名交じりの文の多い低学年では、その言葉自体がわからないことが多い。
(低学年の教科書の混ぜ書き文章は、大人からしても読みにくい。)
またグラフなど「読み取る」という作業が入ることも多く、ここも音読させると理解度がわかる。
2年生の「時刻と時間」の学習などは最もわかりやすい。
時計を見て「9時」と読むところを「12時」と平気で読むなんてざらである。
短針が「〇時」→長針が「〇分」の順に読むこともわかっていないから、読みようがない。
時刻自体が読めないのだから、時間を問う問題ができなくて当然である。
そして「読めない」状態のままテストになれば、当然問題文が自力で読めない。
何を問われているかわからないのだから、解けなくて当然である。
つまり、内容への理解度どうこう以前の問題が存在しているのである。
普段から自力で問題文を読むという習慣が必要なのである。
授業中も、声に出して問題文を読ませる必然性がそこにある。
5年前、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井 紀子著 東洋経済新報社)という本が話題になった。
タイトルを見て「そんな大袈裟な」「そういう子どもも中にはいる」ぐらいに思った人が多くいたと思うが、これは事実である。
調査をするとわかるが、かなりの割合の子どもが、きちんと教科書を読めない。
そして、その状態でそのまま大人になっているのである。
これは学校側としてはお便り一つ配るにも「本当に読めるかどうか」という視点が必要ということである。
問い合わせに対し「お便りに書いた」というのはこちらの言い分としては正しい。
しかしながら、あの大量の文字情報から本当に必要な情報を読み取るということを誰しもできるか、自問する必要がある。
(むしろ、発行している自分たちですら読むのが大変なのではないだろうか。
例えばどの学校であっても、新入生の保護者向けの説明資料などは、文字地獄である。)
話を戻すと、小学校、特に低学年段階において、音読の重要性は強調しすぎることはない。
高学年でも重要であるが、それも低学年での基礎固めがあった上で成り立つものである。
大人同士の読書会でも、音読を行う。
上手な人によって全力で読まれる文章の音声を聞くのは、耳にも大変心地良いものである。
自分自身の音読の向上にもつながる。
即ち、それが子どもの音読の向上にもつながる。
音読向上につながる実践は、数多くある。
例えば長らく「詩文の暗唱」の実践をしていた。
しかしコロナの影響で近距離で音読を聞くことができず、最近めっきりやめてしまっていた。
こちらも、再開する方向である。
確実に語彙力とリズム感が身に付き、子どもの学力向上につながる。
(先日講師として訪問させていただいた都内の学校では、校長先生が全校児童の詩文暗唱を聞いて認定していた。
素晴らしい取り組みであると思う。)
AI全盛の時代になろうと、この点は変わらない。
言語能力の獲得は必須である。
文字情報を読めないのでは、情報獲得の量に圧倒的な差がつくのは必然だからである。
今、新しい様々な取り組みがどんどん生まれている。
しかしながら、温故知新の言葉の通り、古くから残ってきたものには価値がある。
しばらく、感染症対策によって歌や音読が禁止されてきたが、その束縛もこの5月で完全に終わりである。
音読の重要性が、今こそ見直されるべきではないかと考える次第である。
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