「恩恵は権利に変わる」ということを常々伝えてきた。
参考:「教師の寺子屋」2016.12.20記事
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2016/12/blog-post_20.html
思い返せば東日本大震災の折、あらゆる当たり前の有難さが身に染みた。
震災直後「白米と牛乳」という給食が出た時、そこには有難さしかなかった。
あの当時、おかずがどうこうなどという不平不満が出ようはずもないのである。
そしてあれ以来、食事ができるということの有難さを考えて、食事を味わうことが多くなった。
つまり、権利も恩恵に変えられる。
当たり前の権利だと思い込んでいたことも、振り返ることで恩恵であると捉え直すことができる。
そのきっかけは「不足」である。
不足を感じる状態にならない限り、当たり前だと思い込んでいるものの有難さにはなかなか気付けない。
どんな御馳走も満腹状態ではおいしく食べられないというのと同じである。
泳いでいる時のように、空気を自由に吸えない状況になって、初めて空気の存在や有難さがわかる。
一方で、恩恵としての有難さを感じるためにわざわざ不足の状態になる必要はない。
その真実さえ知っていれば、恩恵と感じられるということもある。
例えば世界の貧困地域の子どものクリスマスの願いが「学校に行けますように」だと知る。
そのことで、日本にいながら学校に行くことの意義を考えられる子どももいる。
(「も」いる、というのがポイントで、感じられない人には一切感じられない。)
低学年には、この「恩恵が権利」という言葉だとやや伝わりにくい。
そこで
「してもらっていることは当たり前になる。
当たり前の反対は有難い。」
という言葉にして教えてきた。
当たり前とは即ち権利意識である。
今ロシアとウクライナが戦争状態にあるせいで、平和を有難い恩恵と捉えやすくなっている。
世界的に見たら全く平和ではないのだが、それは今までの日本を見ても同じことである。
ここ数日の大きな地震は、福島をはじめとする東北地方が未だ被災地であることを改めて思い出させる。
日常生活の小さな規模で見ても、この恩恵と権利、あるいは有難さと当たり前の捉え方が大切となる。
相手からの恩恵を当たり前と捉えられるようになると、恩恵を与える側は、馬鹿馬鹿しい気持ちになってしまう。
親が子どもを養育するのは当たり前かもしれないが、子どもがそれを言い出したらどうか。
お互いの捉え直しが大切である。
子どもが毎日学校で学べるのは当たり前か。
子どもが毎日学校に来て自分の教えを真剣に受けることは当たり前か。
学校で毎日働けることは当たり前か。
当たり前だと思っていることは、ないと腹が立つ。
一方で、有難いことだと思っていることには、感謝しかない。
どちらを選ぶのが幸せか。
あらゆる権利も恩恵も、捉え方次第である。
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