今年、『不親切教師のススメ』の中の「背の順」に関する記事に大きな反響が出た。
プレジデントオンライン記事
なぜ誰もおかしいと気づかないのか…学校で「背の低い順に並ぶのは差別」と主張する現役教員の納得の理由
色んなところで騒がれ、一般の人だけでなく評論家の人も出てきてそれぞれが持論を述べるような事態となった。
結果、テレビ朝日やフジテレビなどでも取り上げられ、議論の対象とされた。
このタイトルにある通り「なぜ誰もおかしいと気付かないのか」という点こそが、今回話題となった一番の理由である。
ずばり、ポイントは「刷り込み」である。
我々は、ごく幼い頃に「普通」とされてきたことに対しては、疑いをもたない。
物心ついてすぐに背の順で並ばされていたのならば、それを「おかしい」と思うこと自体が「おかしい」ことである。
小学校、中学校と進むにつれて、序列化が進む。
その序列化の基礎となるのが、この背の順ではないかというのが『不親切教師のススメ』で指摘する問題点である。
子どもたちは、何かと数値で測られる。
もう、年がら年中何から何まで、数値化されている。
我々大人の身体も、年に一度の健康診断で数値化されたものを提示される。
数字を見て良し悪しを判断することになる。
あるいは、金銭に関するような他の測定指標もある。
いずれにせよ、他人と並べて比較されるのは、多く不快感しかない。
例えば健康診断の結果を提示して、その身長順や体重順等々で毎日事ある毎に並んで歩くように言われることを想像すれば、その不快感は容易に想像できる。
パワハラ以外の何物でもない。
数値化や序列化は、ゲームやスポーツのような競争場面では特に有効であり、有用である。
ゲームは勝敗や記録の比較こそが楽しみの中心に来るからである。
金メダルと銀メダルの価値の差は果てしなく大きい。
勝ちと負けは全く意味が違う。
競争とエンターテインメントの世界である。
つまり、教育の世界に数値化を持ち込めば、必然的に競争と比較による弱肉強食の世界に踏み込むことになる。
子どもたちは、学力が日常的に数値化される。
体力も数値化される。
通知表という形で、業績も数値化される。
日常生活の中でも、あらゆる場面で数値化がなされる。
学校生活には、競争意識を煽るものが溢れている。
数値化や比較というのは、同一の物差し、基準の上に載せてこそ成立する。
ある一定の物差しに載せて「あなたは上であなたはその下」と確定する。
まともな意識のある大人なら、まず拒否するような所業に、子どもたちは日々服従しているのである。
大人が日々背の順に並ばされることはない。
何なら、場所を移動する度に一列に並んで歩かされることもない。
大人の場合だと、「普段から一列に並んで移動する」というのは、囚人や捕虜の状態を連想してしまう。
そもそも、並ぶ必然性という点から疑うポイントである。
恐らく、子どもを並んで歩かせた方が、都合がいいのである。
管理しやすいし、時間の関係もある。
つまりは、大人の都合である。
自由な子どもたちを信用しても、思うように移動してくれないからである。
これは、鶏が先か卵が先かという話でもある。
信用していないからいつまでもできるようにならないのか、できないから信用して任せられないのか。
恐らく両方が真実だが、少なくとも何でも任せない内はずっとできないということは間違いない。
学校に通っている内に、数値化と序列化と管理に慣れる。
学校が、そんな場であっていいのかという問題提起である。
たかが背の順と侮ることなかれ。
様々な「正論」が出ているが、差別的な不合理という点を解決するものは見当たらない。
何より、これまでとても嫌な思いをしてきた人たちがかなりの数いるという事実は重く、ここはもう変えようがない。
一番前で辛い思いをする子もいれば、逆の場で辛い思いをする子もいる。
そして何より、教育の場において身体に関することで序列化し並べること自体が、不快である。
学校の人権意識の低さや非常識は、こういったところから梃入れしていくべきではないか。
『不親切教師のススメ』に、そのヒントを山ほど盛り込んだので、参考にされたい。
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