2022年12月24日土曜日

完璧な教師をススメない理由

 毎年、学級づくりをしていると、大抵、思い通りにいかない。

授業も、思い通りにいかない。


なぜなのか。

ずばり、自分のやり方が、完璧ではないからである。

(平たく言うと、色々と下手なのである。)

自分自身が完璧だったら、全て思い通り、予定通りにいくはずなのである。


よって、私の真似を誰かが完璧にやったとしても、思い通りにはいかない。

本人だって、大抵は理論通り、思い通りになんていってないからである。

それが上手くいく時もあれば、そうでない時もあるというのが事実である。

本に書いてあることだって、毎年100%実施されているはずがない。


そんなことができていたら、結果的に恐ろしいことになるからである。

なぜか。


もしも、私が完璧な指導ができる人間だったとする。

そうなれば、私の思い通りの「完璧な子ども」が育つことになり、周りの教室にもそれを実施させることができる。

そうなれば、私の理想の外にいる子どもたちは、全て排除されることになる。

つまり出来上がるのは、規格通りの完璧で、単一な工業製品のような子どもたちである。


そんなことが実現したら、恐ろしいことである。

学校は多様な人間が共に育つ教育の場であり、単一の規格品を作る工場ではない。


これは斎藤一人さんの言葉だが、人間は誰しも「しっかり」なんてしていない。

「うっかり」している生きものである。


どうせ、うっかりしている人間が教えているのである。

大したことは教えていない。

全部聞いていなくても、実はどうってことはない。

ただ、時々役立つことやいいことを言うことがあるので、それを聞き逃さないようにすればいいのである。


不親切教師のススメ』には、こういった思想が根底にある。

申し訳ないが、自分は子どもたちにとっての「正解」をもっていないのである。

その子どもなりの「正解」を探求していく旅路に、ほんの少し、一時的に同行させてもらっているだけである。


不親切教師には「自分は正しく導けるし、そうせねばならぬのだ」というプレッシャーがない。

子どもにも「自分は色々と抜けてるから、全部信用してはいけない」「だから助けてね」と伝えてある。

子どもの自力に、かなり頼っているのである。


こういうことを聞くと「教師のくせにだらしない」とお叱りを受けそうである。

しかし、先に述べたように、教師が正しく子どもを導けるなんて、それ自体が恐ろしい思想なのである。

うっかりな人間が、正しい道なぞ示せる訳はない。


大体、たかが10年後に、どんな仕事が残っていて、どんな新たな仕事が生まれているかすらも、予想できないのである。

そんな人間に子どもの将来の保証なぞできるはずがない。

できることと言えば、今自分がこれが大切だと思うことを、今できる全力で伝えることぐらいである。

信じるか信じないかも本人次第で、なぜならば、その人生を生きるのは、結局子ども自身だからである。


不親切教師のススメ』は、過激なことが書いてあると評されることがあるかもしれない。

しかしながら、その根底にあるのは、子ども自身のもつ成長の種への信頼である。

大人が手出し口出しするのはごく最小限にとどめ、子ども自身の人生を尊重したいという思想なのである。


だから、やることが子どもにとっていいかどうかわからないようなことは、とりあえずやらない。

例えばドリルの○つけとか、作文の細かい添削とか、学級における様々なお世話とかである。

理由もわからず無思考に言うことをきかせることとか、序列をつけることとかも、余計なこととしか思えない。


これは確実にやらないと困る、知らないだろうということは、やる。

学び方とか、今それをされてどんな気持ちになったかとか、最低限の安全に関することとかである。


そういう視点で、もう一度『不親切教師のススメ』を再読していただきたい。

新たな発見があるかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング