毎年、学級づくりをしていると、大抵、思い通りにいかない。
授業も、思い通りにいかない。
なぜなのか。
ずばり、自分のやり方が、完璧ではないからである。
(平たく言うと、色々と下手なのである。)
自分自身が完璧だったら、全て思い通り、予定通りにいくはずなのである。
よって、私の真似を誰かが完璧にやったとしても、思い通りにはいかない。
本人だって、大抵は理論通り、思い通りになんていってないからである。
それが上手くいく時もあれば、そうでない時もあるというのが事実である。
本に書いてあることだって、毎年100%実施されているはずがない。
そんなことができていたら、結果的に恐ろしいことになるからである。
なぜか。
もしも、私が完璧な指導ができる人間だったとする。
そうなれば、私の思い通りの「完璧な子ども」が育つことになり、周りの教室にもそれを実施させることができる。
そうなれば、私の理想の外にいる子どもたちは、全て排除されることになる。
つまり出来上がるのは、規格通りの完璧で、単一な工業製品のような子どもたちである。
そんなことが実現したら、恐ろしいことである。
学校は多様な人間が共に育つ教育の場であり、単一の規格品を作る工場ではない。
これは斎藤一人さんの言葉だが、人間は誰しも「しっかり」なんてしていない。
「うっかり」している生きものである。
どうせ、うっかりしている人間が教えているのである。
大したことは教えていない。
全部聞いていなくても、実はどうってことはない。
ただ、時々役立つことやいいことを言うことがあるので、それを聞き逃さないようにすればいいのである。
『不親切教師のススメ』には、こういった思想が根底にある。
申し訳ないが、自分は子どもたちにとっての「正解」をもっていないのである。
その子どもなりの「正解」を探求していく旅路に、ほんの少し、一時的に同行させてもらっているだけである。
不親切教師には「自分は正しく導けるし、そうせねばならぬのだ」というプレッシャーがない。
子どもにも「自分は色々と抜けてるから、全部信用してはいけない」「だから助けてね」と伝えてある。
子どもの自力に、かなり頼っているのである。
こういうことを聞くと「教師のくせにだらしない」とお叱りを受けそうである。
しかし、先に述べたように、教師が正しく子どもを導けるなんて、それ自体が恐ろしい思想なのである。
うっかりな人間が、正しい道なぞ示せる訳はない。
大体、たかが10年後に、どんな仕事が残っていて、どんな新たな仕事が生まれているかすらも、予想できないのである。
そんな人間に子どもの将来の保証なぞできるはずがない。
できることと言えば、今自分がこれが大切だと思うことを、今できる全力で伝えることぐらいである。
信じるか信じないかも本人次第で、なぜならば、その人生を生きるのは、結局子ども自身だからである。
『不親切教師のススメ』は、過激なことが書いてあると評されることがあるかもしれない。
しかしながら、その根底にあるのは、子ども自身のもつ成長の種への信頼である。
大人が手出し口出しするのはごく最小限にとどめ、子ども自身の人生を尊重したいという思想なのである。
だから、やることが子どもにとっていいかどうかわからないようなことは、とりあえずやらない。
例えばドリルの○つけとか、作文の細かい添削とか、学級における様々なお世話とかである。
理由もわからず無思考に言うことをきかせることとか、序列をつけることとかも、余計なこととしか思えない。
これは確実にやらないと困る、知らないだろうということは、やる。
学び方とか、今それをされてどんな気持ちになったかとか、最低限の安全に関することとかである。
そういう視点で、もう一度『不親切教師のススメ』を再読していただきたい。
新たな発見があるかもしれない。
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