先日「モラロジー」の学習会に参加してきた。
モラロジーとは、「道徳科学」であり、法学博士・廣池千九郎氏の創設した総合人間学である。
そこで三人の先生の話を伺ったところ、全ての話が繋がった。
野口芳宏先生から「孝」の話があった。
「孝」の部首はどちらかと問われる。
A 老いがしら
B 子
これは、何とBである。
親孝行の中心にいるのは、される親だろうと思うが、「子どもがさせて頂く」のが孝である。
次に、会場の校長先生からのお話があった。
教員という立場の「権力」をふるえば、反抗する相手との争いになるという。
人間は、権力をふりかざされると、反抗したくなる。
これは、一昔前に学校が荒れに荒れた時期の構造であり、暴走族と警察との争いの構図でもある。
立場ではなく、人間性からの真の権威が滲み出ていて「この人の言うことには従いたい」と思えるかどうかである。
最後に、地元の開業医の先生のお話があった。
若い頃、酔った勢いで「うちのスタッフは使えない」と、モラロジーのとある方にこぼした。
するとその方は「流水の清濁はその源にあり」(『貞観政要』の言葉)という趣旨のことをさらりと述べられたという。
川の源、即ち、病院の院長は誰かということを、やんわりと、しかし厳しく諭されたとのことである。
これら3つの話は、全て教師にあてはまる。
まず、「孝」の話。
私はここから「教」の字を連想した。
「孝」をもって「むちをふるう」のである。(旁のぼくにょうの意は鞭である。)
教えるという行為には、実はそれを「させて頂いている」という気持ちが必須であると解釈した。
さらには、教わる側にも「孝」の気持ちがベースにないと、その教えも入らないということではないだろうか。
それは即ち、二つ目の「権威と権力」の話にもつながる。
教える側がどういう人間だと、教わる側がどういう姿勢になるのか。
示唆に富んだ話である。
さらに三つ目が、これらのまとめである。
子どもにああしろこうしろこうなれと言うが、全てそれを発している「源」次第である。
結局、主体変容・率先垂範しかない。
さて、子どもたちに主体性がないとしたら、なぜなのか。
面従腹背しているとしたら、なぜなのか。
今回の話で、特に胸を打った話があった。
ある時、モラロジーの方に講演をしてもらったが、話自体はとてもいいのに、聞く側の態度が大変悪い。
主催者として申し訳ないと思っていたところ、講演者の方が頭を畳にこすりつけるようにして謝ったという。
「自分が至らないばかりに聞いていただけなかった」ということである。
この姿勢を、教える側が、果たしてとれるか。
「流水の清濁はその源にあり」を実践できるか。
子どもを変えようと躍起になっているが、真に問われているところは、ここである。
道徳を子どもに語る前に、己を振り返る必要があると痛感した学びの場だった。
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