昨年、次の記事が注目を浴びた。
必死に逃げ回る人間を的にするドッジボールは「人間狩猟ゲーム=弱肉強食思想」の教育だと断言できる理由
タイトルがキャッチ─で刺激的なのは、ネット記事の宿命である。
まずクリックしてもらわないと話が始まらない世界なのである。
しかしながら共感と反感も生んだようで、テレビメディア等でもしばしば取り上げられるほどの議論となった。
このタイトルだけ見たら
「ドッジボール」=悪
と捉えているように思われても仕方がない。
内容の方をきちんと読んで欲しいのだが、それは読んでもらうためのタイトルをつけたこちらの勝手な都合というものだろう。
『不親切教師のススメ』全文をじっくり読んでいない方の視点からすれば、致し方無いことである。
実はここで「やめよう」と訴えている対象は、ドッジボールという遊びそのものではなくて
「みんな」
という方である。
私は「みんな教」と名付けて呼んでいる。
(類似したもので「揃える教」というのもある。)
「みんな教」においては、「みんなご一緒に」が教義である。
そこでは、個人の事情や差異には注目しない。
集団における「平等」という正義の名のもとにおいて、逸脱や勝手な行動は許されない。
「給食を全員残さず毎日完食」というのは、そのわかりやすい例である。
牛乳嫌いの子どもにとって、牛乳が毎日欠かさず出るのは苦行か嫌がらせでしかない。
しかし「みんな教」において、「自分だけ飲まなくてよい」という選択肢はないのである。
そんな「わがまま」な人間は、社会に出て通用しないというのが、「みんな教」における有難い教えである。
その根本には「みんなと一緒、平等に、立派な人間にしてあげよう」という、温かい「愛」がある。
これは「休み時間のみんな遊び」においても適用される。
これに参加しないという選択肢はない。
学級の「団結力」にひびが入るだけでなく、数人がやらないとなれば「いじめ」に発展するかもしれないからである。
そういう訳で、「みんな遊び」においては、全員参加が基本となる。
遊びの内容は、多人数で一緒にできるものになるので、鬼ごっこなどが中心となる。
その候補にドッジボールが挙がることもしばしばである。
ドッジボールは、一部の子どもたちにとって「みんな遊び」における悩みの種である。
鬼の字のつく鬼ごっこより、鬼門である。
ぶつけられて痛い上に自分にボールが回ってくることはなく、万が一パスが来ても当てようがないからである。
そもそも、ぶつけるのもぶつけられるのも嫌という子どもにとっては、先の牛乳嫌いと同じで、苦行でしかない。
一方で、一部の血気盛んな子どもたちにとっては、大変面白い遊びである。
全力でぶつけたい&捕りたい、よけるスリルを味わいたい子ども同士でやるのであれば、エネルギー発散になる。
要は「やっつけることができるかもしれないし、やられるかもしれない」という対等な関係性で行われるべきものである。
スポーツ以上に、格闘技に近い要素がある。
そしてこれは、一部の人々が熱狂するものであり、社会的ニーズも確実にある。
ただ、一部の人にうけるものだからといって、そうでない穏やかな人が参加する義務も意義もない。
やりたい人とやりたくない人が一緒にやっても、お互いにデメリットが多いばかりである。
会社の定例飲み会のようなもので、無理に参加させないで、本当に行きたい人同士で行けばいいのである。
(この辺りの考え方は、若者世代と上の世代との世代間ギャップが大きいところでもある。)
「相手が強いからこそ燃える」というのがスポーツや格闘技、ゲームの本質的な楽しさである。
力の強い子どもほど、そうでない弱い相手に当てるのは罪悪感を伴うものである。
(そう思わなくなったら、ますますよろしくない。)
結論として、多くの場合ドッジボールは「みんな」でやるのに適さないという考えである。
道具やルールを相当に考えても、苦手な子どもが心から楽しく参加しつつ、力の強い子どもが満足するものにはしにくい。
自分もかつて相当工夫したが、それでもやはり苦手な子どもの結論は「できればやりたくない」である。
(圧の強い教員や同調圧力の強い集団下においては、本音が言いにくいので「楽しい」と言ってしまうのが難しい問題である。)
それすらも絶対ではないが、そこまで完璧な配慮のできる担任が全国の教室に存在するのを望む方がまたさらに難しい。
たった一つの強い事実として
「小学校のドッジボールが心底嫌だった」
という声が相当の数上がっているという点である。
実際、私のかつて担任した子どもが大人になってから聞く話にもそれは出る。
(そもそも、こちらの愛情溢れる親切の数々が、無意味あるいは大きなお世話になっていたというのは、痛い事実である。)
この一点だけ見ても、見直す必要性があるのは間違いないといえる。
多様性を認めようという現代の潮流に反する「みんな教」の一端として問題提起した次第である。
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