学校とは、そもそも何のための機関であるか。
そもそも、学校で現在やっていることは、本当にいいことなのか。
『不親切教師のススメ』では、本文全体を通して、この疑問を投げかけている。
こういう疑問をもつこと自体、「危険思想」とされ処罰される国もある。
自由に発言・発信・出版ができるというのは、有難いことである。
学校も、そうでありたい。
自由なことを言い合える風土。
それが、職員間でも子ども同士でも、先生方と子どもたちの間でもできるのがいい。
そしてそういう場でこそ、本物の礼儀が役に立つのではないかと思う。
言いたいことを言い合えるというのは、礼儀ベースである。
なぜならば、相手も自分の属する社会を構成してくれている一員であり、尊重すべき存在だからである。
互いに自由にものが言えるのも、礼儀があってこそである。
普段からリスペクトが感じられるからこそ、耳に痛い厳しい意見も受け入れられる。
立場の上下に関係なく言えることである。
礼儀とは、社会生活における有用な潤滑油である。
だからこそ、名乗るというのは重要である。
一人の存在として認識できる相手でないと、その言葉を信じることができない。
「オレオレ詐欺」は、架空の違う人間になりすますから、詐欺なのである。
本当にその「オレ」であるならば、詐欺にはならない。
自分の立場を明確にし、堂々と議論すること。
クラス会議でも重要である。
一方「匿名」が有用な時もある。
選挙では、誰に投票したかが知られると、理不尽な不利益を被る可能性がある。
だから匿名性が担保されている。
心の悩みの電話相談もそうである。
そうしないと本音が打ち明けられないから、匿名でOKである。
つまり匿名が認められるのは、弱い立場の人を守る場合である。
一方「何かを変えたい」と要望を出す場合や「批判したい」という場合、名乗る必要がある。
それを受け入れることによって相手にもコストがかかるのだから、言う側もコストをかけて然るべきである。
「自分だけが安全・安心でいたい」という姿勢には、賛同しかねる。
もしも何かに対し不満があるなら、声を上げるか我慢するかを選ぶしかない。
声を上げるなら、それ相応のコストを支払う必要が出る。
発言には、勇気がいるのである。
学校で教えるべきことは、そこである。
勇気は、言う気。
語呂合わせの駄洒落だが、言う気を持たねば、何も変えられない。
恥ずかしくても、自分の意見を表明してみる。
オープンな場で、自由に述べた互いの意見が尊重される。
そういう経験を積める貴重な機会が授業であり、クラス会議である。
せっかく自由に意見を言える国に生まれたのだから、そういう自由闊達な子どもたちを育てていきたい。
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