2023年1月14日土曜日

意見するなら名乗るべし

 学校とは、そもそも何のための機関であるか。

そもそも、学校で現在やっていることは、本当にいいことなのか。

『不親切教師のススメ』では、本文全体を通して、この疑問を投げかけている。


こういう疑問をもつこと自体、「危険思想」とされ処罰される国もある。

自由に発言・発信・出版ができるというのは、有難いことである。


学校も、そうでありたい。

自由なことを言い合える風土。

それが、職員間でも子ども同士でも、先生方と子どもたちの間でもできるのがいい。


そしてそういう場でこそ、本物の礼儀が役に立つのではないかと思う。

言いたいことを言い合えるというのは、礼儀ベースである。

なぜならば、相手も自分の属する社会を構成してくれている一員であり、尊重すべき存在だからである。


互いに自由にものが言えるのも、礼儀があってこそである。

普段からリスペクトが感じられるからこそ、耳に痛い厳しい意見も受け入れられる。

立場の上下に関係なく言えることである。

礼儀とは、社会生活における有用な潤滑油である。


だからこそ、名乗るというのは重要である。

一人の存在として認識できる相手でないと、その言葉を信じることができない。

「オレオレ詐欺」は、架空の違う人間になりすますから、詐欺なのである。

本当にその「オレ」であるならば、詐欺にはならない。


自分の立場を明確にし、堂々と議論すること。

クラス会議でも重要である。


一方「匿名」が有用な時もある。

選挙では、誰に投票したかが知られると、理不尽な不利益を被る可能性がある。

だから匿名性が担保されている。


心の悩みの電話相談もそうである。

そうしないと本音が打ち明けられないから、匿名でOKである。


つまり匿名が認められるのは、弱い立場の人を守る場合である。


一方「何かを変えたい」と要望を出す場合や「批判したい」という場合、名乗る必要がある。

それを受け入れることによって相手にもコストがかかるのだから、言う側もコストをかけて然るべきである。

「自分だけが安全・安心でいたい」という姿勢には、賛同しかねる。


もしも何かに対し不満があるなら、声を上げるか我慢するかを選ぶしかない。

声を上げるなら、それ相応のコストを支払う必要が出る。

発言には、勇気がいるのである。


学校で教えるべきことは、そこである。

勇気は、言う気。

語呂合わせの駄洒落だが、言う気を持たねば、何も変えられない。


恥ずかしくても、自分の意見を表明してみる。

オープンな場で、自由に述べた互いの意見が尊重される。

そういう経験を積める貴重な機会が授業であり、クラス会議である。


せっかく自由に意見を言える国に生まれたのだから、そういう自由闊達な子どもたちを育てていきたい。

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