前回の「言いたいことを言い合える風土が大切」という話の続き。
言いたいことを言えるようにしよう。
それは、言いたい放題言おうということではない。
言うべきことを言おう、ということである。
『不親切教師のススメ』は、言うべきことを言っている。
個人として苦しんでいるとか、言いたいから言っているのかというと、多くはそういう訳ではない。
正直、わざわざ自分を危険に晒す行為はしたくない。
世の中の「常識」に切り込む以上、批判が必ず来るからである。
的確であるほど「痛い所を突く」ことになるので、追い込まれた側からはより必死の反撃となって返ってくる。
そして「常識」は、その時、その場の大多数のマジョリティによって支持されている。
「常識」から外れているからこそ差別されるという構造なのだから、当然である。
つまりは、常識に切り込む行為とは、少数を慮る、あるいは真実の一面を示すことで、大多数を一時的に「敵」に回すこととなる。
これは、痛いし怖い。
実際に傷つけられることもある。
世界中の歴史上の人物たちが、そのために死罪になることすらあるのを証明している。
ガリレオ裁判然り、安政の大獄然り、である。
前号でも述べたが、ここに礼儀やルールがあることが大切である。
現在この国では、常識に異を唱えても死罪にならない。
日本国憲法において、表現の自由が保障されているからである。
だからこそ、お互いが言い合える。
世界の歴史は、差別との闘いの歴史である。
社会が生まれた時から、人は差別をし、格差をつけてきた。
例えば米を作るにもその土地を守るにも、指導者、リーダーと他の役割分担が必要だからである。
人権が平等であっても、社会的立場は平等ではない。
業務の分担上、雇用主と被雇用者が完全に同じということはありえない。
支配構造は格差構造を必要とし、その逆もまた然り、だからである。
差別をすると、支配や管理が容易になるという利便性が出る。
「そう扱われるのは仕方がない」と、差別される方にもする方にも心から思い込ませることができるからである。
つまり、誰もがそれに対して不当な扱いと感じなくなる。
つい最近までも、恐ろしいまでの非人間的差別がなされていた。
人種差別と奴隷制度という差別。
○○人は△△人より優れているという民族差別や宗教差別。
女性は男性よりも劣り、つき従うべきという差別。
男性は男性らしく、女性は女性らしくあるべきであり、そこに当てはまらない性の人への差別。
子どもは大人より劣等な存在であり、親が自由にしてよい、叩いて言うことをきかせてよいという勘違い。
心身に健常でない部分がある場合は、差別されても仕方がないという恐ろしい思想。
どれも今、既に世界の多くで「非常識」と化した価値観である。
これらすべて、かつての「常識」である。
(未だにそれにしがみついている人もいるが、そういう人は「時代遅れ」として世間からまともに相手にされない。)
異を唱えられるまでは「そういうもの」として、常識として片付けられてきたものである。
社会的差別とは本質的に、大多数の一般的な善人の無意識によって形成される。
それは、宗教的指導者など、支配階級の人間の意図的操作によることもしばしばある。
大多数の一般的な善人が「差別だ」と意識し始めてしまったその時点で、そのまま放ってはおけず、反対運動が起きてしまうからである。
誰かが「苦しんでいる」とわかった時点で、何とかしてあげたいと思うのが人間の本能だからである。
そして異を唱えて波紋が広がった後は、しばらく闘いが続く。
多くは「そういうことを言う奴は、頭がおかしいのだ」と猛反発や野次がくる。
いわゆる「識者」も反論を表明し、こちらは一見「理知的」な表現で論破を試みる。
「常識」に従っているのが大多数派なのだから、自然であり当然である。
「常識」とは「正義」の御旗そのものである。
これは、これまであって変わっていった差別への対応の経過が、例外なくそうであったことが証明している。
どうであれ、大切な真実、本質はたった一点。
「不当な差別や常識で苦しんでいる人が、その苦しみから解放される」
という一点である。
『不親切教師のススメ』が、小さくともその一歩になっていくことを願う。
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