毎朝の絵本の読み聞かせを続けている。
童話が好きである。
ところで、働いていて、自分を「はだかの王様」の各登場人物みたいだと思うことがある。
王様の立場で考えることがある。
王様は、よくわからないが、とりあえず立派であるべきと思われている。
あるいは、そう見えるように振る舞うべきだと、周りも言う。
だから、本当はそんな立派な人でもないけれど、人前では立派な感じで振る舞う。
与えられた立派な服(権力)もある。
立派な服(権力)が自分にはさっぱり見えていないけれど、自分もそれを一応「着て」見せる。
「みんなには、本当に立派に見えているのかな?」と疑問に思いながら。
大臣や役人の立場で考えることがある。
王様に贈られきた、愚か者には見えないらしい、素晴らしいとされている服。
私には、さっぱり見えない。
しかし、どうやら、周りの人たちには見えているらしい。
「素晴らしい!」と絶賛しているし、あの目にはきっと間違いなく見えているのだ。
何と言っても、偉くて頭のいい大臣も絶賛している。
世間にも認められているものみたいだし、みんなが言うのだから間違いない。
自分が愚か者なのだと知り、隠す。
本当に実際に見て思っていることを言えば、今の私の立場が危うくなる。
民衆の立場で考えることがある。
自分などにはとてもお目にかかることすらできない地位にいる、あの王様がパレードをしている。
しかし、裸だ。
明らかにおかしい。
でもみんな絶賛している。
どうやら、これだけ人々がいて、自分は愚か者の部類らしい。
・・・いやいや待て。
いつもさぼってばかりのあいつや、詐欺師のあいつにも見えているみたいじゃないか。
やっぱり明らかにおかしい。
どれだけの人が、本当は見えていないのだろう?
しかし、言えない。
下手なことを言えば、村八分になる可能性もある。
ほめそやす必要はないが、とりあえず黙っておこう。
きっと、みんなもそう考えているはずだ・・・。
子どもの立場で考えることもある。
王様が裸で歩いてる。
教えてあげなきゃ、可哀そうだ、と純粋に思う。
「あ。裸だ」とつぶやき、みんなに言おうとする前に、お母さんに家の中に引き戻され、厳しく叱られる。
「馬鹿なことを言うんじゃないよ!
あれが裸に見えているなんて、あんたと一緒に育てたあたしも愚か者だと思われるだろ!」と。
村の子どもはほとんど全てがこの対応をされて、家の中で閉じ込められて黙っているだけである。
しかし中に、パレードの最中に親の言うことも聞かずに一人で高い木に登っているようなやんちゃ坊主がいる。
この子どもだけが大声で本当のことを言ってしまう。
「王様ははだかだ!」
「はだかの王様」は、本当によくできた寓話だと思う。
どの立場で見ても「刺さる」ポイントだらけである。
王様だと感じる時は、学級に「君臨」してしまっている時である。
本当はやらせたくないけどやらせている時も、これであり、一番多くて、一番辛い。
大臣だと思う時は、子どもではなく、同じ立場の人々といる時である。
「それはあまり意味がないんじゃ・・・」「これは言いにくいが言った方がいいかも」と思う時がある。
実際、言う時もあるが、まあ空気が読めない感じになることもしばしばである。
そして地位や立場によっては、言いたくても言えないだろうとも思う。
民衆だと思う時は、声が届かない立場からの命令に従わざるを得ない時である。
もう、民衆には抵抗のしようもない。
下手なことを言ったら冷遇されるだけである。
学級担任で、私と同じように思っている人は、決して少なくないはずである。
ただ、「正直な子ども」には、なかなかなれない。
この「正直な子ども」になれば、せっかくの安全な道から逸れて、行く先は間違いなく茨の道である。
「子ども」という立場は、本来地位や権力を離れて自由である。
国を変えるのも、結局は子ども次第である。
子どもたちが、権力に屈したり空気を読んで周りに迎合するのではなく、自分の本当の意見を言えるようにするにはどうするか。
それを教える大人はどうあるべきか。
自治的学級づくりにも通じる課題である。
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