2021年6月1日火曜日

偶然かつ参加必須の集団と同好会を分けて考える

 緊急事態宣言の延長やらオリンピックの開催の是非やらで、意見が多方面に分かれている。


多様性の時代、一億総発信時代の今、国レベルで総意を得るのはもはや不可能に近い。

国会議員のように国民の代表者レベルの人数でもまとまらないのに、国民全員の意見がまとまるわけがない。

そうなると、多様性の時代だからこそ意見がまとまらないということになり、逆に一人ずつの意見が尊重されることはない。


そうなると、結局は、各組織の首長(リーダー)の決断、決定次第である。

そして個人である自分は必然的にそこ(例えば日本という国)に属しただけである。

「〇〇派」でもなんでもない個人なので、リーダーの決定に対し、合わないこともあって当然であり、それを発信できる時代である。

それはたとえ小さな組織であれ、無作為に集まった集団のリーダーにとっては、困難が多い。

全員が反対意見を言えるということは、容易に決断できず、なかなか決定に従ってもらえないということである。

(総理大臣の苦労など全く想像もつかないが、一日やっただけで胃に穴が開きそうな気がする。)


一方で、同好の士の集団、つまり同好会にとっては、活動がしやすい時代でもある。

全員が発信者になれるということは、自分に合う意見も合わない意見も容易に見つけやすくなる。

SNS上であれば、合う人にはつくなり付き合うなりして、合わない人につかない、付き合わなければいい話である。


この二つを混同すると、辛くなる。


必然の集団である仕事上では、自分と意見の合わない人がいて当然である。

学校なら、管理職、同僚、子ども、保護者。

全員が自分と合うなんて有り得ない。


いや、むしろ自分を支持してくれる人など、少数派のはずである。

学級に35人もいて、全面的な支持派が何人もいるはずがない。

「先生大好き!」の印象のある低学年の子どもたちであっても、甘く見てはいけない。

(低学年ほどそうなってくれがちなのは、そもそも他に頼れる人があまりいないからである。)

高学年の場合など、趣味・志向で人間関係をきちんと区別できるのだから、そこに自分がマッチしなくてもある意味当然である。


もしも1人でも支持してくれる人がいれば、御の字であると考える。

特に保護者の8割以上(多分9割超え)は、とりあえず仕方ないから一年間合わせて預けてくれていると考えて間違いない。

それぐらいの申し訳ない気持ちでやっていくと、多分丁度いい塩梅である。


一方、誰とでもつながれるこの時代、プライベートまで合わない人と付き合う必要はない。

多種多様な中から、好きな集団、好きな人を選べる。

(一昔前の、都市部以外の地域社会とかだと、多分ほとんど選べなかったのではないかと推測される。)


例えば、この無料メルマガという仕組みは、それが顕著である。

読みたいと思ったらすぐ登録できる反面、合わないと思ったら、即刻即座に解除ができる。

自分にとって、有益でない、あるいは不快なものをわざわざ見続ける必要はない。

ある意味、とてもライトかつドライな仕組みである。


一方で、良いと思ったら人にすすめるはずである。

同じ集団に誘いたくなるような人は、自分と合う人だけである。

同好会としての性質が強くなっていく。


これら、偶然かつ参加必須の集団と、同好会の二つを混同しないことである。


好みかどうかに関係なく参加している団体については、向上や改善のためにきちんとリーダーやメンバーにも自分の意見を述べる。

(あるいは、リーダーに黙って従うの方を選ぶのも、自分次第である。)


一方で、同好会についてはあまりに自分と合わない場合、そこのリーダーやメンバーに意見をしても仕方がない。

その集団から離れること、そして新たに自分と合う集団に属すことである。

誰もそれを止めないし、むしろ歓迎される。

自分はもちろん、古い集団と新しい集団の全員にとってそれが幸せである。


そう考えると、学校や仕事での諸々が辛いのは、ある意味当たり前である。

自分の属している同好会の、もてはやされ感や心地よさがあるはずはない。

自分と合わない意見もあって当たり前と思って、甘えず精進していきたい。

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