2021年6月3日木曜日

やっていいか、いけないかの区分けを考える

道徳で「やっていいことといけないこと」というテーマを扱い、授業を行った。


題材は簡単に言うと、主人公が友達の図工作品に、よかれと思って勝手に「改善」を加えたというお話。

インターネット上の著作権にも関わる問題である。


ここで話し合う前提として、一つはっきりさせておくべき点がある。

「人のものに勝手にさわらない」という点である。

ここを議論させても仕方なく、前提として共通理解し、おさえておくべき点である。

ここは教える道徳である。


こういうことまで全部考えさせると、訳がわからない授業になる。

考える以前の柱が必要である。

「学校には余計なものをもってこない」というのは、学級開き段階で教えるべき点である。

「トラブルの9割はものを介する」というのが原則である。


さて、考えるべきところとして設定したのは

「やっていい」 「いけない」

       ↑

この間を何で区分け、線引きするかという点だった。


小学2年生の子どもたちからは様々な意見が出たが、大きく2つの考えが出た。


A 自分がやりたいか、やられたら嬉しいか

B 相手がやられて嬉しいか、迷惑にならないか


AとBの考えは、連動している。

AなくしてBは想像ができない。

しかしながら、AだけでBを確定するのは危険である。


特に幼児期は

「自分の認知」=「他人の認知」である。


以前に紹介した

「皆さん知っていると思いますが、昨日は私の弟のお誕生日でした」

である。

(参考:「教師の寺子屋」過去記事

 https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/12/blog-post_5.html


即ち、自分がそうだと感じたことは相手も当然そうだと感じる、と考えている可能性がある。

自分の思いは相手に正しく伝わっていると考えるのである。


しかしながら、現実はそうではない。

現実には、自分がどう伝えても、相手がどう感じるかについては一切選択権がないのである。


こういうことに思いを巡らせるというのが、道徳をみんなで学ぶ意味であると考える。

仲間から、意外な答えが出てくる。

お互いにびっくりする。

それで、お互いに理解が深まる。

そう考えると、一人で算数の学習はある程度できても、一人で道徳の学習というのはなかなか難しい。

価値観の違いのすり合わせが肝である。


今回の点で難しいのは

「相手が望まない」=「自分はやるべきではない」

とも限らないという点である。


極端な話、悪いことをしているとわかっている人は、注意をされたくない。

意図的なスピード違反で警察に捕まりたい人などいるはずがない。

しかし、本人が望んでないから違反していても捕まえるべきではない、という理屈は社会的にもおかしいことになる。

特に教師がこの考えだと、全ての指導に遠慮しがちになり、学級は荒れ放題に荒れる。


個人的な考えについても言えて、すべて相手に合わせて自分を押し殺すという方向はこれも考えるべき点である。

(またそれが幸せという考え方もあり、その違いも尊重されるべきである。)


それぞれの「違い」を学ぶということ。

哲学的になりがちであるが、このように確定しきれない点もあるのが道徳の難しさと感じた次第である。

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