2015年2月27日金曜日

「信・敬・慕」は「生活・授業・遊び」で育つ

前号の続き。
子どもとの「信・敬・慕」の関係をどうやって築くかについて。
以下、次の本の拙稿から引用する。
『思春期の子どもとつながる学級集団づくり(学級を最高のチームにする極意)』(赤坂真二編 明治図書)
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185824-7
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(引用開始)
『信・敬・慕』は、それぞれ連動して育つ一方で、特に効果的な活動があります。
『信』という字は、分解すると、『人』+「言」です。
つまり、言っていることとその人自身が一致している状態です。
言行一致です。
特に思春期の子どもは「立派なことを言っているが、先生はできていない」ということを見抜きます。
普段の生活でしている、何気ない口約束やルールなどを教師自身が守っているかが問われます。
いじめから守ってくれるというようなことも大切です。
逆に、その辺りができているだけで、ある程度信頼が得られます。

『敬』は、「すごい」と思われることで得られます。
単純に考えて、能力が上であれば、その点においての尊敬はされます。
「自分にはできないけれど、この人にはできる」ということです。
これは、授業で感じられます。
つまり「よくわかる授業」や「楽しい授業」によって、能力を伸ばしてくれることが条件です。
教師の高い専門的知識や技能が、ここで役に立ちます。

『慕』は、親しみを持たれることで得られます。
具体的には、遊びや会話です。
休み時間には、存分に遊んだりおしゃべりを楽しんだりして、関係性を築いていきます。
(一昔前には放課後や休日に一緒に何かをして仲良くなることも多かったようですが、時代の流れで現在では難しいでしょう。)
悩みを聞いたり相談に乗ったりすることも効果的です。
(以上、引用終了)
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これらのことの大切さは思春期の子どもに限ったことではないのだが、関係性を築くための重要ポイントである。
「信・敬・慕」の関係を築くことは、日常から意識して指導に当たりたい。

2015年2月25日水曜日

「信・敬・慕」の関係作りは、役割上の義務

教師と子どもの関係について。
教師と子どもの関係に「信・敬・慕」の3つがあることが望ましい。
(例の如く、この言葉は野口芳宏先生の教えである。)

しかし、実際問題として、教師だから信頼・尊敬されるということはない。
教師だから慕われるということもない。
これは、一般社会における通常の人間対人間の関係と同様である。

ただ、役割として考えた時、教師は適切に指導し、子どもはその指導に従うのが望ましい。
社会なら、職務上であれば、上司の命令に従うのが原則。
基本的に、選択はできない。
そう、「基本的に」である。

実際問題として、役割に、感情が絡む。
指導に従うべきだが、従いたくないという感情。
原因を考えると
1 取り組むべきものへの好き嫌い
2 一緒に取り組むメンバーへの好き嫌い
3 指導者への好き嫌い
4 心身の調子の良し悪し
等々、いくらでも考えられる。

だから、役割として選択できないはずのことに、誤りが起きる。
例えば、義務教育という点で考えた時、学校に行くかどうかに選択肢はないが、行きたくないという感情は起き得る。(大人の仕事も同様。)
感情に理性が負ければ、休むことになる。
正しくはないが、現実にはそうなる。

世の中が正しいこと(=道徳)で通らないのは、感情が最終的に個人の「正義」を規定するからであると考える。
「これがいい」の規準を決められるのは、最終的に本人だけである。
「価値の押しつけ」批判をはじめとする道徳の評価が難しいという点がここにある。
(つまり、「正義」は実際には、個人内でのみ存在し、通用する。
 他者にとって自分の「正義」は、害悪にすらなり得る。)

そう考えると、役割としてだけでなく、感化・影響者としての教師を考える必要が出る。
「これがいい」という教師の指導に、進んで共感しようという感情が起きるかどうか。
そこには「信・敬・慕」がどうしても必要になる。
授業をすれば知識の伝達はできるかもしれないが、信・敬・慕なくして相手の中には入らない。

「信・敬・慕」がなくても、指導自体はできる。
ただ、指導効率が著しく落ちる。
(あるいは、マイナスに働く。)

子どもとの間に「信・敬・慕」の関係を築くのは、実質上、教師という役割の義務である。
次号では、どのようにその関係を築くかを考えていく。

2015年2月23日月曜日

節分あれこれ

前号の「鬼の話」の続き。

ついでに、豆まきに関連して節分の意味も調べてしまう。
節分といえば一般的に二月の豆まきを連想するが、元々節分には4つある。
立春・立夏・立秋・立冬の4つの前日である。
要は、季節の分かれ目は全て節分である。
ただ、現今では立春と立冬のみを指すようになった。
また、俳句の季語として「節分」を用いる場合は、自動的に立春の節分の意味となる。
また、「せつぶん」と「せちぶん」の両方の読み方をする。(「おせち」と同じ読み方である。)

こんなことは、一般的に知っている必要はあまりない。
しかし教師にとって「学者」としての要素は大切である。
「豆まきをするのが節分」という子どもでも知っていそうなことを教えるだけでなく、一つ上のレベルに上げる。
そうすると、他の節分にも目がいく。
立夏は5月5日頃で子どもの日。
立秋は8月8日頃。夏至と秋分のちょうど中間である。
立冬は、11月8日頃で、やはり秋分と冬至の中間である。
(立冬だけぞろ目でないのが気になる。ここだけは11月11日では、都合が悪いようである。)
また、節分の前18日間が「土用」で年に4回あるが、やはりこちらも一般的には、鰻を食す夏の土用をさす。
・・・・というように、数珠つなぎに知識が広がる。

どれも、一般会話の中で出てきたら「どーでもいい」ことである。
多分、普通にこんな話をしたら「うざい人」である。
ただ、そんな広汎な知識があることが、「学者」を求められるこの職業の特殊性につながる。
そう考えると雑学も必要である。
「先生はなぜか色々なことを知っている」というのは、子どもが教師に一目置く要素の一つになり得る。
「教え導く」が仕事なのだから、当然求められる要素である。
この職業の場合、雑学も馬鹿にせずに身につけておきたい。

2015年2月21日土曜日

素材研究 関連した本も「ついでに」読む

今回は、教材研究以前の「素材研究」の仕方の話。
タイトルは、以前にも紹介した国語科指導主事の横田経一郎先生の言葉。
ここを元に、自分の解釈した素材研究の仕方を述べる。

節分の日に関連して。(この記事のメルマガ発行がちょうどその時だったので。)
例えば国語科で『おにたのぼうし』(あまんきみこ作)を授業するとする。

まずは「鬼」に関連する本をたくさん読んでみる。
大抵、悪い鬼が多い。
鬼=悪というイメージは、日本では『古事記』の中に出てくる黄泉醜女(よもつしこめ)以来である。
中には人を喰うのもいて、大抵正義の味方(ヤマトタケル、桃太郎、一寸法師・・・他)に退治される。
邪悪の化身という位置づけである。

一方で、「山男」も「オニ」という位置で民衆に親しまれている。
例えば斎藤隆介の作品『八郎』や『三コ』などには、山の大男が主人公として登場する。
斎藤隆介の描く山男は、大変な力持ちで心優しく、貧しいものや虐げられている人々のために自己の命を投げ打つのが特徴である。
これは、主人公の「おにた」に通ずる点がある。

その視点で探すと「ないた赤おに」や「おにはうち!」などの、「いい鬼」の話も結構ある。
どれも、「人間と仲良くしたいのに、差別されてきた心優しい人々」の話である。
鬼は「異形のもの」「超能力者」として、「畏れ」られてきたのがわかる。
ここを読み比べ、共通項を探る。
そうすると、自分の中に「これを子どもに伝えたい!」というものが見えてくる。
(逆に言うと、これがないまま行う授業は虚しい。やるだけ無駄である。)

さらに、「ついでに」作者のあまんきみこの他の作品を読んでみる。
例えば、「ぼうし」が重要アイテムという共通点の「白いぼうし」と読み比べてみる。
なるほど、ぼうしの中に何か大切なものが入っている、というのは、ロマンチックである。
ぼうしというものへ作者の思い入れも伝わってくる。
「きつねのおきゃくさま」と読み比べると、「命をかけて大切な人を守る」という主人公の共通項が見えてくる。
そこに、感動の中心があるとわかる。

授業をするなら、素材研究をして周りのものにまで手を広げる。
それで、知識を深め、土台となる基礎を築く。
そこがあって、はじめて「何を教えるか」を選定する「教材研究」の開始である。
さらに「指導法研究」をし、具体的な発問や指示まで考える。

そうなると授業で使うのは、素材研究の中のたった1%である。
99%は、しまっておく。
イメージとしては、氷山の一角。
授業研では観る視点がないと、海面の上に出ている部分しか見えない。
指導主事の先生などは、海中の沈んでいる部分が見えている。
なぜなら、自分自身が研究して知っているからである。
そこまでしてはじめて、子どものどんな反応にも対応できる幅のある授業が創れると思う次第である。
教材研究以前に、素材研究に力を入れたい。

2015年2月17日火曜日

思い出の校長先生

前号で、「職員を守ってくれるのが管理職」ということを書いたので、そこに関連した話。

何か、管理職に対して批判的な感じを受けた方がいるかもしれないが、その逆である。
私自身は、自分が管理職の先生方に守ってもらった経験が何度もある。
現在も含め、管理職の先生に恵まれてきたので、ここまで色々やれた。
(だからこそ、そうでないという人の話を聞くと、本当に切なくなる。)

私の一番の長所は「運がいいこと」で、特に人との出会いに関する運は抜群にいい。
これを「人運」と勝手に名付ける。
職場でも外でも、素晴らしい人にたくさん出会って、かわいがってもらっている。
本を出せたことなど、私の「人運」の良さを象徴していると思う。
(本は、素晴らしい実践があるとか、出したいという思いだけでは出せない。
 人様が運んでくれる縁で初めて実現することを知った。)

私には、特に思い出の校長先生がいる。
木實誠先生という。
拙著「やる気スイッチ押してみよう!」で、朝のあいさつのエピソードの中に出てくる校長先生である。
既にご逝去されてしまったが、私にとっての一生の目標となる校長先生である。
(逆に、他にもたくさんお世話になっている先生方は、どの方も元気にご活躍中なので、今回は敢えて紹介しない。)

この校長先生は、とにかく大きい方だった。
特に若手には、新しいことにどんどんチャレンジさせた。
「やりたいようにやれ。責任は俺がとる。ただし、危なかったら止めるから。」
このように言われて、やる気が出ない若手職員はいないのではないかと思う。
ベテランの先生方も、若手の指導に本当に熱心で、あれこれ口出しするというより、上から大きく見守る雰囲気だった。
事実、「生徒指導困難校」に指定されるぐらい荒れていた学校が、どんどん上向きになっていった。
やがて、その校長先生が退職された後にも「あの学校に異動したい」という声も上がるぐらいになっていった。

そして、当時荒れている学校らしく、保護者や地域からの苦情が多かった。
これも、職員に対しての苦情の場合、管理職か事務職員の先生が誠実に対応して捌き、
「これこれこういうことで、こう伝えておいたからよろしく。」ということが何度もあったようだった。
(事務職員の方がこれをしてくれるというのも、すごいことである。)
担任に、余計なエネルギーを使わせないのである。
その代わり、担任のエネルギーの全てを「子どもたちに全力で向き合うこと」に使うよう求められた。

そういう一面「過保護」なぐらい恵まれた環境にいたため、あらゆる人に「お前はきっとこの先苦労する」と言われた。
しかし「憎まれっ子世にはばかる」で、この後も何かといい思いをさせてもらった。
自由にやらせてもらえたからこそ、今のエネルギーがあると思っている。
(そろそろ、大きな修行期が来るのではないかと、内心びくびくしている。)

要は、管理職のチームワークで学校は8割決まるという実感である。
自分のがんばりももちろんあるのだが、やはり管理職の先生の力は大きい。
良い校長、教頭に恵まれたら、どうやってもいきいきと働かざるを得ない。

もし現在不遇な方がいたら、それは一時的なものだと言ってあげたい。
管理職の先生は本来、学校職員を守ってくれる一番頼りになる味方である。

2015年2月15日日曜日

知足と離職率

今回は教育から離れて社会への雑感。

最近、また松下幸之助氏の本をよく読む。
松下氏の著書によく「知足」という言葉が紹介されている。
その出典は、老子(第33章)「足るを知る者は富む」である。
満足を知ること。
これがないと、あれこれ目移りして、どれにも不満が出る。

最近の若者は、就職しても長続きしないという。
データとして見ると、確かに「3年以内の離職率」は年々どんどん上がっている。
「根性がなくなった」という見方もあるが「選択肢が多くなった」という見方もできる。
選択肢が多いということは、迷いや悩みが生じるということでもある。
極端な話、江戸時代のように「親が商人だから自分も商人」というようであれば、迷いようもない。
どちらが幸せなのかは、観による。

ただ、身内を庇う訳ではないが、教員の新採の場合を考えると、必ずしも原因はこれに当てはまらないように思う。
教員への法的なルールや社会からの要望は年々厳しくなり、そのストレスによる離職の多さは無視できない。
特に、保護者対応の難しさはその最たるものだと思う。
(若くて経験がないのに、ベテランと同じ完璧な対応を求めるのは酷である。
 そういう時に、そこを庇うのが素晴らしい管理職だと思う。
 そういうピンチの時の対応に、本物の「偉大さ」や「尊敬」を感じる。)
迷いもなくなりたい一心で就いた教師という仕事は、予想以上に大変なはずである。

客商売の職業の新採の方々も、恐らく同じ境遇ではないかと推測される。
どの商売も、サービスが向上しすぎて、「御客様」の要望がとにかく高い。
(海外の庶民向け客商売サービスと比較すれば、一目瞭然である。)
若者たちの能力だけに原因を求めるのは、いかがなものかというのが私見である。

そして、この社会を作る人間を育てたのは、学校教育であることを絶対に忘れてはいけない。
少なくとも教師を10年以上やっているなら、確実に責任がある。
もしクレームが多い地域なら、そういう人をその地域の学校が育てたのである。
(その点で、外から移住してくる人が多い地域は、学校への愛着がなく、大変なことが多いようである。)

話を「知足」に戻すが、ちなみに松下幸之助氏も、「最近の若者は続かない」と嘆いている。
昭和30年代にである。
つまり、ずっと言われ続けていて、これからもそうである。
仕事の選択肢が増え続ける以上、この傾向は止まらないだろう。

それでも、知足。
どこかで割り切る必要がある。
少なくとも、働ける現状があるなら、そこに知足を見出したい。

2015年2月13日金曜日

物語文では、主人公の人柄がわかる発問を

野口塾IN木更津での学びシェア。
今回は野口芳宏先生の講座から。

冒頭で「常時善導」の言葉があった。
教育とは、そのままにしておかないこと。
活動だけではダメ。
悪くしてもダメ。
常に善導せよとのこと。
国語の授業一つとっても、それは言える。

あまんきみこの「白いぼうし」が教材の、国語の講座。
発問を色々としていく訳だが、何でもかんでも発問すればいい訳ではない。
どうでもいいことはきかない。

では、どうでもよくないことは何か。

野口先生曰く「人柄が読み取れる発問をせよ」とのこと。
つまり、そこに着目すれば、主人公がどんな人物かより深くわかる発問をするべしとのこと。

「白いぼうし」なら、例えば白いぼうしを拾いにいく場面。
わざわざ車を停車させて拾いに行く。
ここだけでも人柄がわかる。

ここにかぶせて、次の発問をされた。
「エンジンを切ったのか、かけたままか。」

一見すると、読み飛ばすし、どちらでもいい発問のように見える。
しかし、実はここに主人公の人柄が出る。
文章をよく読むと、これもわかる。
エンジンは、切っている。
少し停めるにも、エンジンを切るような、何事にも丁寧な人物である。

国語の物語文で何を発問すればいいかわからないなら、主人公の人柄がわかるものを探す。
これだけでも、明日の授業が変わること請け合いである。
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