2019年12月23日月曜日

学習意欲が高まっているとは

学習意欲の捉えについて。

子どもの学習意欲ということが大切にされている。
新学習指導要領でも「学びに向かう人間性」の育成は、最重要項目である。
昨今に限らず、「関心・意欲・態度」には常に重点が置かれてきた。

ところで、この「学習意欲」という大きな言葉.
その内実がかなり違うと感じる次第で、書く。

言葉というのは、ラベルである。
ある種のものの分類、カテゴライズである。
しかし、同じ言葉の指すものでも、内実は全く違うということが多々ある。

学習意欲というものは、捉えによって内実が全く違う。

例えば最近、eラーニングによる学習がもてはやされている。
子どもの習熟度に従って、問題を出してくれる。
これはこれで意味がある。
子どもの学習意欲の向上に役立つという。
この場合、指すところは「子どもがゲームのように楽しんで取り組む」という意欲である。

また、何かのキャラクターに喋らせたり、下品なものを用いて笑わせて面白がらせる、という手段の場合もある。
(昨今大ヒットした漢字教材について、私はかなり批判的な立場である。日本語に対する品性が問われる。)

一方で、目指すところがあって勉強して、問題を解いているという場合。
これも「学習意欲がある」という。
しかし、これは先に挙げたいくつかの例とは、全く内実が違う。

前者は、外発的動機付けという。
面白そうだと思いそうなものを与えて意欲を引き出す方法である。
この場合、外的要因に魅力を感じなくなると、意欲が全くなくなる。

後者は、内発的動機付けという。
自分の内にそれをやる目的があり、動く場合である。
この場合、外的要因に影響を受けにくい。

もう少しわかりやすく例える。
子どもが好きなものだけを毎日食べさせれていれば「毎日よく食べている」という表現になる。
好き嫌いが少なく何でもよく食べる子どもも「毎日よく食べている」という表現になる。
確かに両者とも毎日よく食べているのだが、内実は全く違う。

何を言いたいのかというと、学習意欲の捉え方である。
子ども好みの美味しそうなものばかり与えて「よく食べている」と安心できるかどうかである。
状況によっては、そういうものが提供されない場合もあり得る。
この場合の「学習意欲」は、本人ではなく、他者に規定されることになる。

「学びに向かう人間性」というようなことを考える場合、最初は外発的でも、どこかで内発的動機づけに変換する必要がある。
人工的なサービスを受けて楽しいといっている状態から、自然の中に入って自分で楽しみを見つけられるようにするのと同じである。

現在の学校は、残念ながら、オーダーメイドの場ではない。
しかし今、時代はそういう流れになってきている。
消費者一人一人にとって、最適で快適なサービスを提供するのが当然という流れ。
ICTの得意分野である。

だからこそ、そうではない経験をする場として、学校は意味がある。
自分の思い通りにいかない他者との関係の中に生きる。
サービス満点ではない、不満足な中で、他者と折り合いをつけながら学ぶ。
多少しんどいことでも、意義を見出し、意欲をもって取り組む。

便利な世の中だからこそ、不便な体験も必要である。
他人と協働することは、大変だし、面倒である。
大変だからこそ、大きく変われる。
他者の面倒をみるからこそ、面倒をみてもらっていた自分に気付ける。

学習意欲の話に戻る。
やりやすいもの、面白いものばかりでは、育たない「学習意欲」もある。
困難であっても、挑戦しようと思えるような学習意欲が欲しい。

例えば算数。
普通に教科書レベルの問題であれば、特に考えなくても、大抵のものはできる。(手順や公式の丸暗記でできる。)
しかし、入試問題のようなものや、算数オリンピックのような問題であれば、別である。
古今東西の算数クイズもたくさんある。
こういった、知識だけでは解けないようなものに粘り強く取り組む「学習意欲」も育てたいのである。
解けないかもしれないし、モヤモヤも残るかもしれないが、単なる点数だけを追っている子ども(と親)には特に意味がある。

今の自分には難しいからこそ、自分をよりよく変えていこうという学習意欲が欲しい。
その基盤となるのが、前号までに述べてきたセルフエスティーム。
自己信頼があれば、困難にも、意欲をもってがんばれる。

易しいものばかりを与えるのが優しさではない。
励ましつつ、困難にも挑戦できるような真の学習意欲を育てたい。

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