2019年12月2日月曜日

ニーズがなければ始まらない

緩い話からの、真面目な話。

先日、県内の有名店で焼き肉を食べる機会があった。
すごくいい肉を提供する。

最後の方に、一番楽しみにしていた、サーロインを頼んだ。

・・・旨い。そして、ものすごく、重い。

一切れ食べて、一気にお腹がふくれた。
どんなに旨いものでも、お腹がいっぱいでは、美味しくいただけない。

ここからの気付き。

どんなにいいものを提供しても、ニーズ次第である。
相手が必要としていない状態では、真価が発揮されない。
そして、欲というのは、過剰に満たすと幸せから遠ざかる。

満たされている状態では、折角のご馳走すらも迷惑である。
そんなに勿体ないことはない。

つまりは、いいものをあげようとしても、相手がそれを欲していなければ、無価値どころか迷惑がられるだけである。
提供するタイミングが命である。

これは、人にものを教える時全般にいえる。

教育実習生が授業について吸収するようになるのは、自分が授業をしてからである。
おそらく、学級経営について考えるようになるのは、採用されて担任を任された後である。
それまでは、必要性自体をそこまで感じないのである。

子どもに教える際にも同様。
目指すものがある子どもに教えるのは、割と容易である。
極端な話、将来の夢がプロ野球選手という子どもと、野球に全く興味のない子どもに野球を教える場合。
どちらが教えやすいかは、言わずもがなである。

これは、もっと小さい場面でもいえる。
そもそも、勉強そのものに価値を置く子どもに教えるのは、全く難しくない。
難しいのは、勉強に意味がないと思っている子ども。
算数に全く興味がないし価値もないと思っている子どもに算数を教えるというのは、至難の業である。

教師はよく保護者から
「先生、うちの子にこれこれをできるようにしてください」
と頼まれる。
頼まれる事項は、大抵、子どもの興味のない&苦手なことである。
(冷静に考えるとわかるが、この場合に子どもがそれに興味がないのは、当たり前である。)

これは、結論からすると、無理である。
私は割とはっきりとものを言う方なので
「それは無理ですね(笑顔)」
と告げる。
(ただし、認知能力の問題等で特別な支援があればできると判断される場合は、その方法を真剣に模索する。)

子どもには、それぞれもって生まれた魂、使命がある。
それに沿ったことなら、命をかけて何時間でも集中する。
しかし、そうでないことには、全く興味を示さない。
それは、使命に向かうために予めプログラムされたものといってよい。
子どもには「無駄なこと(=大人にとっては有益だと思えること)」をしている時間はないのである。

相手のニーズに沿ったものを提供する。
ニーズそのものを変えようとしない。
人にものを教える時の、見落としがちにして極めて重要なポイントである。

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