『不親切教師のススメ』が世の中に広がるに従い、ここに関連するセミナーも多く開催するようになった。
その中で、参会者の方からリフレクションレポートを送っていただいた。
『不親切教師のススメ』の真意をわかりやすく言語化してくれている。
ご本人の許可を得て、以下、頂いたリフレクションレポートから一部引用する。
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(引用開始)
【不親切という言葉の意味】
キャッチーだからこそ、この言葉が使われているのだろうけれど、厳密にいうならば、「(敢えて)不親切」なのだろう。
「目に見える手(指導)を入れること」これを是としている現場だからこそ、
・掲示物へのコメント
・ドリルの丸付け
・連絡帳の確認など
は、キチンとした指導であり、これが是とされている。
目に見えるものしか信じてないのだろうなぁ…。
しかし、教師は掲示物へのコメントについては、多くの子どもにとって力がつくものではないことに薄々感じているはずなのだ。
「うーん。」と思いながらも、「でも、ずっとやってきていることだから。」と、その違和感を置き去りにして続けてしまう。
こんなことが現場には多い。
不親切であることの目的は、自分なりの言葉で言うとすれば、「自分で考えて決めることのできる子どもになってほしい」ということ。
自分が行っている教育活動は、子どもの頭を働かせているのだろうか。という視点で見つめてみると、わかりやすくなるのかもしれない。
お隣に座っていた私のお友達は、松尾さんの「鵜飼の話」がかなり腑に落ちていたようで、少しずつその範囲を広げ、最終的に手放す。
というところが必要なことなんだろうと話していた。
私もそうだと思う。
最初から「不親切」にできないこともあるし、段階的にそれを行うということ。
著書をしっかり読み込めば、わかることだけど、教育本の怖いところは、
その内容の「エッセンス」だけを自分に落とし込み、「不親切」を何の考えもなしにやってみること。
これは怖い。
・無自覚
・無意識
は、教育現場にとって「毒」だ。
(中略)
今回問いたいことは、「なぜ、それを行うのか。」それを考える教師であってほしいという
こと。
その教育活動は、なぜ行うのか。それはそもそも必要なことなのか。
それを問い直すことが、教師の教育実践をよりよくする手立てのひとつとなるのだと思う。
いつもしている実践に「なぜ?」「なんのため?」と問える教師でありたい。
(引用終了)
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この文中にある
「目に見える手(指導)を入れること」
これこそが私の指摘する「親切」の正体である。
要するに、目に見えるからこそ「やっている感」をアピールできる。
つまり、指導の免罪符になるという面をもつ。
こういったものは、ともすると実質を捨てた形式に陥りがちになる。
しかしながら、ここで指摘されているように、掲示物へのコメントで子どもに力はつかない。
以前にも紹介したが、教師が作文に朱を入れることよりも、子どもが文を書くことの方が大切なのである。
次の言葉も、まさに我が意を得たりという表現である。
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不親切であることの目的は、自分なりの言葉で言うとすれば、
「自分で考えて決めることのできる子どもになってほしい」
ということ。
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セミナーの最中にも
「子どもが主体性をもつようになる指導を端的に教えて欲しい」
という質問があった。
私は「自己決定の場面を多くすること」と答えた。
つまり、子どもが自分で考えて決めていく場面を、大人が奪ってはいけないのである。
鵜飼の鵜のように、いつまでも紐をつけて子どものコントロールを大人がしているようでは、自立しない。
それは、学習、安全、人間関係、全てにおいて言える。
不親切教師は、先回りの大きなお世話が最も悪影響を及ぼすと考える。
そして最後のくだり
「なぜそれを行うのか」
である。
そのまま真似するだけでは、単なる不親切な教師である。
なぜ、何のために、敢えて不親切に振る舞うのか。
それは、子どもの主体性を高めるというただ一点の目的のためである。
逆に言えば、本当にそのままではできないことを放置していては、自立できない。
必要な環境支援をした上で、段々と手放していくのである。
教師の仕事を本当に素晴らしいものにしたいと願う人にこそ『不親切教師のススメ』をおすすめしたい。
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