以前も紹介したことがある人物だが、私も面識のある、有名な職人の方の本を頂き、拝読した。
職人の世界では、次のような言葉を弟子は言われるという。
「言われたらそのままやれ」
「頭で考えるな」
「バカになれ」
(ちなみに、私は弟子でこそないが、実際にお会いした時に、厳しい言葉を色々と言われた。
それらがいちいち本当にその通りで、納得し、嬉しかったことをよく覚えている。)
これらは『不親切教師のススメ』ですすめていること、そして子どもに言っていることと、真逆である。
では、どちらかの教育が間違っているのか。
職人の世界においては、先の言葉は正しい。
いちいち反論したり勝手にアレンジしたりする人間には、教えられない。
それは、特定の技術の伝承が中心にあるためである。
そして、それを習いたいと弟子入りしてきた人を相手にするからである。
私も師の野口芳宏先生に似たようなことをやんわりと諭されたことがある。
つまり、師のもとへ習いに通っている以上、従うのが筋である。
それが嫌なら、通うのを止めるべきである。
自分で師を選び、学びたいことがあるのだから、当然である。
「進んで従う」という状態である。
一見矛盾する言い方だが「主体的に従う選択」をしている訳である。
ところで、学校においては、これらは当てはまるか。
子どもは、師として自分を選んで通ってきているのか。
また教師は、そういう立場として子どもの前に立っているのか。
さらに、そういうつもりで職場に仕えているのか。
どう考えても、そうではない。
言うなれば、学校の教師と子ども、あるいは職員同士というのは、単なる偶然の組み合わせである。
少なくとも、人間を選んで来ていることはまずない。
それは、受験をして入学していようが、採用試験を受けて採用されていようが、同じである。
師弟制度とは全く意味の違う集団である。
つまり
「黙って従え」
は通用しない世界である。
正確に言えば、それが通用してはいけない世界である。
それが通用すれば、文字通りの支配になる。
子どもに教えるのは
「言われたことをやればいい訳ではない」
「自分の頭でよく考えること」
「賢くあれ」
である。
前号でも書いたが、自己決定を求め、自立を促すことである。
これらは、そのまま教師の側にも当てはまる。
上から言われたことに対し、考えずにそのまま従うようでは、単なる隷属である。
工夫もせずに愚直に例年通りの作業をしているだけでは、到底いい仕事はできない。
なぜならその命令は、自分が納得し心酔した相手からのものではないからである。
逆に言えば、例えば自分の上司に当たる人物に対し、心から尊敬し師と仰いでいるのなら、素直に従うことにも主体性がある。
勤めている会社や仕事に対して惚れ込んでいるなら、ひたすら従うのも有りである。
無条件に従うことは、考えなくてよいから、楽なのである。
例年通りでいることは、変えなくていいから、楽なのである。
周りと同じでいることは、その他大勢でいられるから、楽なのである。
ただし、楽している、今まで通り維持できていると思っている時点で、実は緩やかに衰退しているという自覚は必要である。
それは成長ではなく、単なる老朽化である。
セミナーなどで質問を受ける際に、多く出てくる本音の悩みが
「子どもに日々やらせていることが、正しいことかどうか、自信がない」
というものである。
これは心ある人なら必ず抱く悩みである。
自分がよいと思えないことであれば、それはきっと、正しくない。
きまりだから、というだけの理由でやらせていることの大半は、無意味どころか有害である。
やらせていること自体、既に老朽化していることばかりである。
では、自分の言うことに完璧に従わせる方がいい相手とは何か。
それは、相手が自分のような人物を目指している場合である。
私であれば「教師になりたい!」と願う相手であれば、ある程度の道筋を示すことができる。
従えば、悪いようにはしない自信がある。
だから、本気で教師になりたい教育実習生に対しては、教えやすいし、結構厳しいことも言う。
そうでない相手に対しては、まあぼちぼち、という感じである。
(教師にならない人にとっては指導案など二度と書かないのだから、形さえできれば正直どうでもいい。)
さらに現実は、本気で教えた有望な学生も、企業や学者の道を選ぶことが少なくないという現状である。
言われたことに従わざるを得ないような現場、または子どもを従わせるような現場を見ていれば、当然の選択である。
つまりこの地盤そのものを変えていかねば、教員採用試験を高倍率にすることは夢のまた夢である。
従来の教育モデルでは、それでも良かったのである。
『不親切教師のススメ』の「おわりに」にもそれは書いた。
引用する。
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(引用開始)
これまでの教育はどうしても「横並び」「揃える」「みんな一緒に」という方向性が強かった。
経済成長が上向きの時代においては、周りに言われた通りに動くことで人生が安泰だったからである。
それが時代の要請する最適解だったといえる。
しかし日本という国の成長が誰の目からも明らかに右肩下がりになり傾いてきている今、
それでは上手くいかないことに人々は気付き始めた。
そこに上乗せする形で教育界には突如「個別最適な学び」というスローガンが出てきて、一人歩きし始めた。
(引用終了)
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時代の最適解が、変わったのである。
社会のパラダイムシフトが起きた。
今では十代の子どもや二十代の若者がネットで何百億円も稼ぐ。
かつて見たことも想像したこともない方法を用いてである。
単純な作業は全てロボットとAIが担当し、かつての職業の大半が消え失せる。
作れば売れたはずのモノが溢れてゴミの山と化し、処理に困った製品が不法投棄されたり二束三文で売られたりしている。
かつての世界で想像できただろうか。
それが今、世界中で起きている。
このパラダイムシフトが起きた世界に対し、私たち教師は「正解」を知っているのだろうか。
個別最適な学びとは何なのか、本当にわかった上で、教えているのだろうか。
答えは明らかに「No」である。
そうなれば、子ども自身にも、自己決定を求めるしかない。
申し訳ないが、こちらの言うことに黙って従ってもらったとしても、その結果責任はとれない。
その上で、こちらが最も良いと思える教育を提案していく程度なのである。
現代以降の学校における教師と子どもは、師弟関係ではない。
いや、昔からそうだったのだが、昔はそれでも大体の正解が見えていて、従っていればある程度の結果を保証できたのである。
一方で、弟子入りする、何かを選んで習いに行く場であれば、まず従うこと。
各種のお稽古やスポーツクラブや学習塾と、学校という場は明らかに違う機関なのである。
当然、教育のスタイルも方針もすべて全く異なる。
そこを学校と比べること自体、無意味である。
そう考えれば、学校は学習塾などとは次元が全く違う、不親切な場であって然るべきである。
別に師弟関係でも何でもないのだから、やたらよかれと世話をしたところで、有難迷惑である。
全員に同じものを提示する一方で、全員に一律の結果を求めるものでもない。
個によって必要なものは異なる。
真に公平で公正な公教育とは、そういうことである。
学校とは、単なる偶然の集団である。
この自覚をもって臨めば、
「子どもが(私の)言うことをきかない」
ということに対しても、
「先生が(私の)思う通りにやってくれない」
ということに対しても、見え方が変わるのではないだろうか。
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