2022年4月2日土曜日

「言うことを聞かない」を考える

 言うことを聞かない。

時代を問わず、子育てや教育に限らず、広く人々の頭を悩ませている事柄である。


さて、この「言うことを聞かない」だが、辞書では色々な扱いで正式な言葉としてある。


「明鏡ことわざ成句使い方辞典」によると

1 人の言うことを聞き入れようとしない。

2 体などが思うように動かない。


「広辞苑」によると

1 命令に従わない。

2 身体や機械などが思い通りに動かない。


とある。

「聞く」について問題としているのは、明らかに1の方である。

しかしながら、2のように考えているのが問題なのではないかというのが、今回の問題提起である。


2については、明らかに「自分の身体」についての話である。

しかしながら、言うことを聞かせたい相手(子ども)は、他人である。


人の身体を、思い通りに動かせるものなのか。

そして、広辞苑の解説にもあるように、それは自分の身体でないなら「機械」相手とみなしている場合である。


そもそも、他人が自分の「言うことを聞く」のがおかしいという前提をもってみる。

「言うことを言う」のは、自分にできるのである。

しかし、それを「聞く」主体は、相手である。


そう考えると、古今東西問わずに人々を悩ませている原因がわかる。

他人の体は、自分の思い通りには動かない。

自然の摂理であり、普遍の真理である。


「聞き入れるかどうか」ですら、相手の意思決定であり、こちらにはどうにもできない。


さて、それでも動かしたいという強い欲求にかられると、何をするか。


威圧的態度や怒りといった感情で動かそうとする。

場合によっては集団圧力や哀しみと言った感情で動かそうとすることもある。


要するに、それが出てしまった時点で、教育的には失敗である。

もしそれで動いてしまったら、相手が「モノ化」したと同然である。


怒っても泣いても教育的には負け。

それでも、感情が出てしまうのが人間である。

それは、その手が手っ取り早いからである。

しかし、それは本来、言語が使用できない赤ん坊のための手段である。


感情に頼らない「聞く」ための教育はどうするのかを考えていく。

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