話を聞くことについて。
前号では、道徳を例に価値観を押し付けないが、前提をおさえるという話を書いた。
人の話は聞くものである。
これは前提。
ただし、聞いたことをすべて素直に受け容れるべきということではない。
これが価値観の自由。
究極のところ、前提すらも絶対的な正解ではない。
前提は多くの場合、自分の育った国の文化によって作られる。
世界基準で見た時、その常識的絶対解は、不都合なものの可能性もある。
例えば、他人との待ち合わせ時刻に遅刻してはいけない。
これは前提。
ただし、これは国によって大分程度の差の大きい前提である。
かなり時間に対しての概念が寛容な国もある。
待ち合わせの1時間遅れでやってきて、笑顔で「お待たせ」という国だってある。
こちらが怒っても「何が問題なの?」と不思議がられる羽目になる。
では、日本の子どもたちにそのように教育をしていいかというと、これは不都合が生じる。
日本の企業や一般社会には、時刻にきっちりしているものが多い。
(少なくとも、現在の鉄道運営関係の仕事に就くのが難しくなるのは間違いない。)
常識的に、時間は守るべきというのが日本の一般社会の大前提にある。
常識とは「common sense」であり、直訳すれば一般感覚である。
多くの人が共通でもつ一般的知識である。
日本で電車が少し遅延しただけで文句が噴出するのは、「電車は時刻通りに来る」という常識があるためである。
それが前提になければ、文句を言おうという感情自体が湧いてこない。
そして常識に絶対は存在せず、常に相対的なものである。
ある時期を境に、地球を中心に回っていたはずの太陽に対し、逆に地球が太陽を中心に回りだすようなことも起きる。
月に行きたいと思った人が非常識と馬鹿にされていたのに、今ではそれは常識的な考えとみられるようなことも起きる。
だから、絶対解は存在しないという大前提があるものの、とりあえず前提となる相対的な解としての道徳がその時代に決定している。
常識は文化的な知識であり、それは教えないと決して知り得ないものである。
そうすると、道徳の授業で何をすればいいのかわかる。
仮にだが、自分がブラジル育ちで日本に来て教師になったとする。
「別に時間にルーズでもゆったり生きるのがいい」という価値観をもっているとする。
これ自体に何ら問題はない。
ただそうであっても、子どもに基本的生活習慣を身に付けさせる上で「時間を守る」と教えるのが職務上の使命である。
その前提があった上で、もし相手との時間を守れなかった時にどうすべきか、初めて考えられる。
「素直にひたすら謝る」という選択肢もあるし、「相手に事情を理解してもらうよう努める」という選択肢もある。
そこは価値観の違いがあっていいところである。
ここに「時間を守る」という前提がないと、先の「何で怒ってるの?」という反応になってしまい、人間関係に支障をきたす。
前提があれば「遅れてしまったのは申し訳ない。ただ知って欲しいのが・・・」という話になる。
道徳教育において教える前提は、社会全般における円滑な人間関係の前提である。
(無人島で自給自足して暮らすのであれば、全く不要の知識である。)
だから、宗教が根付いている世界の国々では、道徳の授業がない代わりに、宗教教育や公民教育等が実施される。
前提となる常識(一般知識)は、学校で教えずとももっているからである。
例えば、神の教え、意志に反するものはいけないという常識がある。
日本では、学校がその常識的な面を教育する役割を担う。
「なぜ人に親切にするのか、できない時をどう考えるか」
「なぜ誠実であるべきか、相手が不誠実な対応をした時にどう考えるか」
「なぜ差別がいけないのか、いけないことなのになぜ根強く存在するのか」
といったことを、一つずつ丁寧に扱っているといえる。
(もちろん、先に家庭教育があってこそより有効に機能する。)
そのように考えると「話を聞く」というのは、子どもに身に付けさせたい前提の姿勢といえる。
これは取りも直さず「人を大切にする」ということと同義である。
「聞く」という主に国語科における技能面と同時に、道徳的な面を併せもつ。
基本姿勢として、誰かが話している時は「聞こう」と思えるようになることが理想であり、それが教育の方向である。
では、そう思えない子ども、そうしようとしない子どもに対し、どうアプローチすべきか。
つまりは、前提が抜けている子どもたちへの教育である。
ここに苦戦している現状が、全国の教室に散見される。
ここについて、次号以降も考えていく。
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