前号で「言うことを聞かない」ということについて書いた。
相手が話を聞いてくれるかどうかは、完全に相手側に主導権がある。
こちらがどうこうできるものではない。
ただ、これを自分の側に適用していいか、ということである。
つまり、私は人の話を聞かなくていいのか、ということである。
これは、どう考えてもよろしくない。
相手の言うとおりにする必要はないが、相手が誠実に話をしているなら、こちらは聞くのが筋である。
(それを理解できるかどうかということは、また別問題である。)
つまり、人の話は聞く方がよい、というのがまず大前提にあり、ここは外せない。
前提を疑うという姿勢自体は大事だが、全てを疑っていると何も決められないという面もある。
これは、道徳教育にも通ずる話である。
昨今の道徳教育において強調されているのが
「価値観を押し付けない」
という点である。
つまり、ある出来事についての価値観は、人それぞれだから尊重しようということである。
例えば互いが異なる宗教同士、あるいは無宗教であることも尊重される。
だから、価値観の違いも生じるし、それらは互いの権利を侵害しない範囲で最大限尊重される。
(そしてここが当然になっていないから、戦争や差別といった問題になっている。)
では、道徳授業では、何も教えてはいけないのか。
あるいは、とにかく子どもが自由に考えて発言すればよいのか。
そうではない。
ある教材を扱うにあたり、それぞれ中心となる価値項目がある。
思いやりだったり公正・公平だったりと色々ある。
ここから完全に離れた「話し合い」は、単なる勝手なおしゃべりの場であり、それは授業とはいえない。
ただ、どれをもって「思いやり」があるとするか、あくまでここを押し付けないということである。
前提として「思いやり自体は大切」ということがある。
ここを外してしまうと、訳がわからない道徳授業もどきになる。
例えば、以前にも書いた、「アラジン」の行為をどう見るかという問題である。
主人公がどんなに不遇であろが鮮やかな手口でかっこよく盗もうが、盗みは犯罪である。
ここは絶対に外してはいけない前提の部分である。
ただ、貧しくて盗みをせざるを得ない相手の生活状況というのを、配慮して想像する必要はある。
その場合でも、あくまで大前提は「盗みは犯罪で良くないこと」ということだけは外さない。
前提がおかしいと、全てがおかしくなる。
道徳授業でも、この前提はまずおさえる。
物語の主人公が作中で色々な判断をするが、それが適切かどうかという判断は、個々人の価値観の違いでいいのである。
ただし、前提として例えば「公正・公平は大切」といった部分は共通の土台としておさえた上での話合いである。
「優先席は本当に必要か」ということについて、必要派と不要派に意見が割れていいのである。
ただし、その場合も「困っている人や弱っている人は労わるべき」ということは大前提にあった上である。
「だからこそ優先席が必要」
という意見と、
「だからこそ優先席でなくても譲るべきなのだから不要」
という意見の違い、価値観が自由なのである。
道徳授業で迷路にはまりこむ光景を随所で見るが、この辺りが根本原因でないかと考え、提示してみた。
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