2021年4月14日水曜日

新年度の環境を清める

先週、どこも新しいスタートを迎えたことと思う。

異動があった人はもちろん、なかった人も、多くは教室やデスクなどの場は移動したと思われる。


この時が、チャンスである。

みんなにとって、新しい場なのである。

そして、場を移動してきた先は、前に使っていた人の快適状態である。


私は、移動した場では必ずこれを見直す。

年末大掃除ならぬ、年度はじめ大掃除である。


余計なものがあれば廃棄するか他へ譲る。

そしてものをどければ大量のほこりが出てくる。

掃き清める。


こうすると、必ず広いスペースができる。

今まであったものがなくなったのだから当たり前である。

教卓などの面積の広い大物ほどいい。

一気に広くなる。


また、部屋のほこりっぽさは、外からではなく、実はそういう部屋の溜まったところから発生していることが多い。

特に今は春風が吹く時期で、しかも感染症対策で窓や扉を閉め切ることができない。

そうすると、風が入ってくるたびに、溜まった部分のほこりが少しずつ拡散される。


棚の上などの高いところのほこりは、少しずつ頭上や机の上に落ちてくる。

机の下などのスペースの大量のほこりは、少しずつ足元に出てきて、舞い上がる。

それを普段吸って生きているのだから、気持ちいいはずがない。

(常時マスクは、部屋にほこりが溜まって環境ほど、健康を守るのに有効である。)


書いててくしゃみが出そうになるが、そういうことである。

だから、モノを減らせばほこりが減る。

ほこりが減れば、みんな健康になる。

当然である。


文字通り、空気がきれいになる。

そうすると、気分も変わる。

新しいことを始めようという時は、この空間をきれいにするところからである。


これは教室にも適用される。

教室の中で「不動」の部分があると、そこにほこりがたまる。

重くて持ち上げられない教卓など、その最たるものである。

「隅っこ」と「モノの下」は清掃の最も重要なポイントになる。


また、新年度に学年メンバーで大掃除をすると、「お宝」が発見できることがある。

こんな便利なものがあった、ここに学年行事で前に使ったものがあった、といったことが学年で共通理解される。


新年度の忙しい時期にそんなことしている暇はないと思うかもしれない。

ずっとやるのではなく、日々少しずつやる。

朝や放課後の10分間だけなど、決めて行う。

そうすると、必ず何かが変わる。


スタートの環境づくりに労力をかけることは、費用対効果が最高にいい。

効果てきめんである。


ポイントは

1捨てる(整理)

2清掃する

3ものの住所を決める(整頓)

の3ステップで行うことで、1を思い切ることが最も重要である。

学校には、昭和や平成1桁のものとかが結構残っているので、そっと処分してあげるのが後の人のためにもいい。


新年度、気持ちのよいスタートのためにも、処分できるものはしてしまいたい。

2021年4月12日月曜日

問題を忘れない

今年で東日本大震災から10年が経った。

昨日4月11日で、10年と1カ月である。

10年も経つのに、一部の被災地は復興の目処が立たない。

原子力発電所というのは、もたらすエネルギーが大きかった分、マイナスも甚大である。


その膨大な電力の恩恵を受けていたのは、特定の地域の人々ではなく、この国に住んでいる我々全員である。

全員が決して無関係ではない。

恩恵を受けていた以上、そこについては考える義務がある。

今は福島第一原発の汚染処理水の海洋放出の方針を固めたとのことで、今後ますます注視すべき事柄である。


技術的なことなど、何も直接的なことはできないが、風化させないことである。

問題が解決していないのに、見ないふりをしないことである。

問題への認識が大切である。


私がたびたびお世話になってきた「被災地に学ぶ会」には、昨年度、感染症対策のために全く参加できなかった。

そんな中、中心メンバーの方々は少数で活動していたとのことで、ご報告をいただいた。

ボランティアの数は大幅に減り、一年前の10分の1程度だという。

しかし、浪江町には「道の駅なみえ」が昨夏オープンするなど、住民の帰還を促すための復興事業が少しずつだが進んでいるという。

今年度こそは、何とか参加したいと願う限りである。


大きな問題が別に起きると、そちらに意識がいく。

新たな問題の方にばかり目がいきがちだが、その前からの問題は一向に解決していない。


こういうことは、日常でもよくある。

学校の問題などこの連続である。


例えば、全国のいじめ問題には「ブーム」があるように見える。

実は、ブームなどはなく、いつも問題は起きていて、都度大きなことがある度に注目されるだけである。


新しい問題にはきちんと向き合う。

一方で、以前からの未解決問題を放置しない。


被災地復興への問題意識は、今後も忘れてはならない大きな問題意識である。

2021年4月10日土曜日

通知表の評価は指導者自身への評価

時期がずれてしまったが、 年度末の通知表の時期に書いた記事。

指導と評価について。


「指導と評価の一体化」が大切とよく言われる。

よくよく考えると、当たり前のことである。


指導というのはある一定の目標を指して導くものである。

(支援とは違う。)

目標の方向へ向かっていればよし、そうでなければ修正が必要である。


この時、指し示した方へ進んでいれば、高く評価される。

高く評価されることで、これでよかったのだとわかり、安心してますますそちらの方へ進む。


評価が低かった場合、「そっちじゃないですよ」というメッセージを受け取る。

修正をせねばならないとわかり、努力の量や方向が変わる。


指導された方向に従って努力したはずなのに、低く評価されたと感じる子どもがいたとする。

この場合、努力の量が足りなかったのか、方向がよくないのか、指導者側が示す必要が出る。


逆に、指導された方向へ努力しなかったのに高く評価されたとする。

これは混乱する。

がんばっていないのに「よくがんばったね」と褒められる。

「こんな程度でいいのか」あるいは「見てないな」と感じる。

これにより、低い方向へ導かれることになる。


つまり、指導と評価の一体化とは、指導したことに正対した評価をするということである。

よい評価の方向が指導の方向を決めるともいえる。

評価をされる方向に子どもが伸びるといもいえる。

(多分、会社などでもこれは同じではないかと思う。)


評価が誤っていると、子どもの成長はあらぬ方向に向かうことになる。

例えば「人に優しくしましょう」と指導しているのなら、それをしている人を高く評価する必要がある。

とにかく高い個人パフォーマンスを発揮して周りを無視して進んでいく子どもを評価していれば、人を気遣う優しさよりそれが正しいのだと認識される。

だから、指導と評価は一体化というより、本来両者は不可分である。


通知表をつけていて、伸びたと感じたなら、指導と評価が正しく機能していたといえる。

子どもの通知表への評価は、指導者自身の指導への評価そのものである。

2021年4月8日木曜日

「間違い」→「ニーズの違い」と理解する

前号の続き。

文化の違いと正解の違いについて。


働く側が職場に対して求めることも異なる。

ある人は、自由に創造的に働けることを求める。

ある人は、やることが予めきちんと手順まで決まっていることを求める。


規律がきちんとしていて、定時に帰れることを求める人もいる。

規律等はゆるくても、とにかく各自のペースでのんびり働けることを求める人もいる。


学校という場で考えると、この辺りの認識のズレが苦しみの根源になりやすい。

部活動問題など最もわかりやすいが、土日も積極的にやりたい人と、全くやりたくない人が混在する。


家庭と子どもの側からすると、土日も部活をやってくれることは嬉しい、助かるという声もある。

そして逆の声も、もちろんある。


育った文化が違えば、「正解」「正義」は異なる。

つまり、完全オーダーメイドの提供は無理である。


オーダーメイドとは、サッカーで例えるならば、とにかく自分が走り込んだところにボールを出せという要望になる。

私ではなく公の場である以上、どこか「適」と考えられる場を「落としどころ」としてある程度合わせる必要がある。


教室という場に絞ると、受ける側の要望と授業内容というのは、大抵の場合完全一致しない。

本当にそれを学びたくて授業を受けている学生がいるかと思えば、ただ履修単位が欲しいだけという人もいる。

小学校や中学校でもそれは同じで、本当に学ぶのが楽しい子どもと、ただ時間が過ぎ去るのを待つ子どもである。


どちらが正しい、間違っているという訳ではない。

ただ、ニーズが違うだけである。


さらにややこしいことに、教室ではこの両者だけではない。

教師の側には学校(さらには委員会や文科省)としての要望が乗っており、学生や児童・生徒の側には、保護者の要望も乗ってくる。

言うなれば「上からの要望」であり、これを無視することはできない。


だからそれぞれの教室内での「本当はこうしたい」が通用しない。

落としどころを探すのは、さらに難しいことになる。


そう考えると、やはり集団には目的や理念の共有が必要である。

関わる個人の全ての要望に配慮すると、解が出ない。

「ここが柱」ということがはっきりしていれば、とりあえず全員そこに立ち返って考えることができる。


学校であれば、学校の教育理念やルールである。

教室であれば、学級開きでの所信表明や学級目標、全員で共通理解して作ったルールである。


ここで目的や理念だけでなく、ルールを挙げたことに意味がある。

一定のルールがないと、集団の維持は不可能である。

先に述べたように、集団成員の各人の文化が全く違うからである。

共通理解事項として「集団としてのとりあえずの正解」を共通認識しておく必要がある。


認識違いやすれ違いは、ここの理解不足から生じる。

自分は相手を理解できていない、相手の正解が自分の不正解かもという前提に立つ必要がある。

「わかっているはず」「こうしてくれるはず」という自分本位の期待が、失望や怒りを引き起こす。

例えば本来自由な存在である子どもが、期待通りに動いてくれることなどまずない。


大人同士も然りである。

思うように相手が動いてくれている、黙ってくれているとしたら、自分を抑えて合わせてくれているだけかもしれない。


自分自身を振り返ってみても、合わせている面もあるが、周りに合わせてもらっていることだらけである。

いつでも「お互い様」という気持ちを忘れないようにしたい。 

2021年4月6日火曜日

文化の違いは正解の違い

 「認識」や「すれ違い」に対する気付き。


テクノロジーの発達で、音声認識システムの翻訳性能が飛躍的に高まってきた。

すぐに機械が他言語に翻訳してくれるというのは助かるが、意図が正しく伝わっているかは怪しい。

日本語と英語という二つの言語だけを比べてみても、文化が違えば言葉のニュアンスも大分違う。


「自由」は元々日本にはない概念である。

よって英語だとfreedomとlibertyという異なる概念だが、どちらも日本語では「自由」で表現される。


loveは愛と訳されるが、これもかなり両者のニュアンスが違う。

英語では趣味などで「○○が好き」にもloveが使用されるし、植物には水や光などの存在が「必要」という意味もある。


愛や自由、平和や平等などの概念に関するものは、特に翻訳が伝わりにくい。

互いの歴史的・文化的背景を知っていると、違いにも気付きやすい。

多様性の尊重や理解ということには、こういう面も含まれる。


基本的に、全ての人は互いに異文化育ちの存在である。

家庭生活においても、例えばタオルを家族共用するか個別にするかといった些細なことから違う。

ある家では何の問題もないことが、ある家では完全NGであることなどしばしばで、各家庭文化が異なる。


当然、家庭教育で何を重要視しているかも全く異なる。

そうなると、学校教育に期待するものも全く異なる。

(多分共通項でありそうなのは、元気に行って元気に帰ってきて欲しいというようなことぐらいである。)


新学期、新しい子どもとの出会いは、新しい家庭との出会いでもある。

子どもを伸ばすためにも、互いを尊重し合える関係を作っていきたい。

2021年4月4日日曜日

する自由としない自由

 次の本からの気付き。


『愛と祈りで子どもは育つ』

渡辺和子 著  PHP文庫(2017)

https://www.amazon.co.jp/dp/4569767672


この本の中に「自由学園」創設者の羽仁もと子さんの「自由」についての言葉が紹介されている。

以下、引用する。


================

(引用開始)

「あなたがたには、脱いだはき物を揃える自由があります」というのです。

それは、「揃えない自由もある」ということなのです。

どちらがより良い生き方なのか、脱ぎっ放しにするほうか、揃えるほうか、そのより良いほうを考えて、選ぶということなのです。

日々の生活の中での小さな自由の行使が、実は大切なのです。

「自分らしさ」を作るのは、このような小さな自由の行使の積み重ねなのです。

(引用終了)

=================


それをするのが、自由の行使であるという自覚。

意識しないとなかなか難しい。

日常のすべてが「当たり前」になっているからである。


クラス会議ではよく「掃除を真面目にしない人がいる」ということが議題に上がる。

要するに、真面目にやって欲しいという要望である。

何年生の学級でも、必ず出る。


これはなかなか考えどころである。

話し合いをしても大抵なかなか着地点が定まらないが、毎回一つだけいえることがある。


それは、真面目にやっている人の中に、進んでやっている人がいるという点である。

つまり、誰かが見ているからとか、得とか損とか関係なく、やる人はやるという点である。


やらねばならないからやる、という自主性に基づいてやる人もいる。

しかし、やる方がよいからやるという主体性に基づいて取り組んでいる人もいる。

つまり「はき物を揃える自由」である。


どちらが自分にとってより良い生き方なのか。

それを主体的に選びとり、行動する。

それこそが、自由である。


やらされてやるのは、意味がないとは言わないが、効果の方向が全く変わってくる。

掃除などは、特にここが大きく分かれるところである。

学校以外の生活でも、やらない人はやらないし、やる人はやる。

かなり本人の選択次第である。


他人がどうかはあまりこだわらずに、やると自分で決めた人は、気にせずやる。

掃除に限らず、勉強や仕事や趣味やボランティア活動、あらゆることにいえる自由の考え方ではないかと思う。

2021年4月2日金曜日

自分に嘘をつかない子ども

 

特別支援の先生の話や本を読む機会が続いたので、そこからの気付き。


特別支援学校や特別支援学級には、自分に嘘をつかない子どもたちが多いという。

つまり、思っていることを直接口に出し、行動に移す。


これはもちろん「通常学級」に在籍する子どもの中にもよく見られる傾向である。

(この「通常学級」は「特別支援学級」と区別するために止む無く使用するが、何が「通常」なのかは疑問が残るところである。)


こういった子どもの言動を教える側が面白がれるかどうかがポイント、という話だった。


加えて、特にこういった子どもたちにとっては、ルールがないと安全・安心が担保できないという。

単に「走りたいから走る」では、いつ事故に遭うか気が気でない。

信号を守ることは交通ルールの基本である。


言葉についても同様である。

こういった子どもたちが社会で生きていく上では、次の3つが言えることが大切だという。

「ありがとう」「ごめんなさい」「手伝って」

加えて講師の先生からは「一緒にやろう」の言葉があるといいとのことだった。


この「自分に嘘をつかない子ども」に関連して、ある本で素敵なエピソードを見つけた。

次の本からである。


『1/4 の奇跡 (「強者」を救う「弱者」の話) 』

山元加津子 著(2010)マキノ出版ムック

https://www.amazon.co.jp/dp/4837661718


著者の山本加津子さんは、特別支援学校の先生である。

この中に「しんちゃんのこと」という話がある。


しんちゃんは、全ての人の言葉に必ず返事をしてくれる子ども。

それが誰かの独り言であってもしっかり反応してくれる。

だから、独り言の癖のある担任の先生とのやりとりは、傍から見ていて大変愉快だったという。


大きくなってスーパーで買い物をしていても、万事その調子。

店員さんが「毎度ありがとうございます」

と言えば

「毎度は来ていません。

いつも来ることができればいいのですが」

とすかさず返す。


「ニラ、138円」

と言えば

「ニラは138円でございます。間違いありません」

「ひき肉、238円」

と言えば

「ひき肉は、238円でございます。餃子に使いますよ」

と返す。


相手はもちろん困惑するだろうが、この「しんちゃん」は、誠実に返しているだけである。

人の話を全然聞いていないで返事もしないという人とは、真逆の位置にいる。


要するに、人を大切にしているのである。

だから、ないがしろにできず、必ず相手に思いを伝える。

生きづらさはあるだろうが、これはなかなかできない素晴らしいことだと思う。


このエピソードも続きがあり、感動の結末があるのだが、ここでは書かない。

ぜひ購入して、一人部屋で読まれることをおすすめする。

(電車や公共の場で読むと、困るかもしれない。)

私が2020年度に読んだ本の中で一番心に響いたものである。


自分に嘘をつかない子ども。

大人こそ、学ぶべき点ある子どもたちである。

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