2020年5月8日金曜日

家庭学習こそ履修型ではなく修得型へ

今、自宅学習の在り方を見直さざるを得ない状況にある。
学校教育では未だICT環境が整備されていないことが多く、今回の事態はかなり苦労する。
教員が一軒ずつ家庭訪問してプリントを宅配して回っているとのことだが、これで学力をつけるのは相当大変である。

「授業を受けていれば勉強したことになる」というのは、履修型の考え方である。
日本の学校、とりわけ義務教育は全てこれである。

これが全く通らなくなったというのが今回の事態である。
「授業を受けていないから履修したことにならない」という論理になる。

そこで、自宅学習でも課題を出して身に付いたと見なされるものについては、再度授業をしなくてよいという文科省からの通達が出た。
これもなかなか苦しい。
これでは「履修」とみなしても「修得」できていないという事態になり得る。

「学力が身に付いたかどうかで判断する」というのは、修得型の考え方である。
入試や入社試験など、各種試験はこれである。

どちらが大切で価値があるか。
これは言わずもがな、修得型の方である。
履修してもさっぱり身に付いていないのでは、学んだとは到底いえない。

つまり、プリントや課題をやるという行為自体は、履修。
テスト等で修得できているかを見る必要が出る。

じゃあ後でテストすれば問題ないではないかということになるが、大いに問題がある。
多分だが、かなり多くが、恐らく、修得できていないのである。

普段の授業であれだけやっていても、修得が困難なのである。
それが急に自力だけで修得できるようになるぐらいなら、苦労はない。

つまり、学校再開した時の学力格差が、今まで以上に大きくなることが予想される。
自ら学び、自ら考える力がある子どもばかりならいい。
そうではないから、苦労するのである。

本当なら、新学期から学び方そのものを指導し続け、だんだんと自力の学力をつけていけるようにするところである。
しかしながら、今回はそれがかなわない。

動画教材などが色々と出回ってはいるが、それを選ぶ段階からもはや苦労する。
そもそも、それをきちんとやらせるだけの家庭教育の力も必要である。
(人間に怠けたり低きに流れたりする性質がなければ、いらぬ心配なのだが。)

学校の存在意義がはっきりと見えたともいえる。
最初から自らを律して生きるというのは、レベルが高い。
他律によって、自律の力をだんだんと身に付けるというのは、良い手段である。

お寺に修行に出したり、習い事に通わせたりするのと同じである。
そういう場には、苦労をともにする仲間もいる。
大変でも、それをせざるを得ない状況であれば、人はがんばれる。

学校というのは、実に恵まれた教育環境だったのである。
その好条件が失われた今、悪条件の中でも何とかせよというのが、学校に突き付けられた課題である。

私の勤務校では、3月よりICTを活用した学習が順次始まっている。
これからどうなっていくのか、試行錯誤の連続になるが、挑戦していきたい。

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