2020年5月4日月曜日

主体的な学び手になる

今回の騒動によって、学校も大幅な変革を迫られている。
まさに「大変」である。
当たり前にあったものの常識が覆されている。

例えば、対話やコミュニケーション。
恐らく、学校が再開しても、これらに制限がかかる。
交流やふれあいができない状態である。

代わりに、従来型の一斉授業の技術が必要になる。
交流型でやっていた教師にとっては、ここも変革である。
ネット上での交流なら可能だが、やはり生身の交流とは、全く質が違う。

どう教えるか、が改めて問われる。

ちなみに、進学塾の超有名講師陣というのは、一斉授業のプロである。
ニーズが集中的に高いから、もともと個別対応などしていられない。
その一人の講師の恩恵を最も広く伝えられる方法は、一斉授業のネット配信、動画配信である。

オンラインの授業は、一斉に受けられるのはいいが、1000人が受けていたら、その場での質問は時間的な制約が大きい。
それを録画しての動画配信なら、いつでも何度でも見られるという大きなメリットがある。
これらの一方通行型の一斉授業の価値が、今一度見直されることとなる。

動画を見る→個別に学習→質問をする
という流れが一般的になるかもしれない。
そうなると、肝となるのは、この動画の部分である。
無用な質問が出すぎない程度のわかりやすさが求められる。
つまりは、結局教え方である。

これは今更言うまでもないことだが、子ども同士の交流中心の授業が本当にできる教師は、一斉授業も当然できる。
一斉授業がうまくできるというのは、端的に言って、教える技術がある、ということになる。
重要なポイントや躓きのポイントがわかっていて、乗り越える方法もわかっている。

それを敢えて教えずして気付かせるにはどうするか、ということに知恵を絞る。
当たり前だが、一斉授業をするにしても、一方的に教えるよりも、気付かせる部分が多い方が上等である。

つまりは、一斉授業も交流型授業も、根本は同じである。
教えないといけない部分は教えて、自力で気付けそうな部分は教えず気付けるようにする。
自力のみでは乗り越えられなそうなところを、問いや交流を通して気付けるようにする。
やはり、一緒である。

そう考えると、ネット上の授業だろうが、根本は同じということになる。
知識を詰め込むのではなく、学び方そのものを身に付ける方が優先である。
そうしないと、教えてもらうばかりで、いつまでも気付けるようにならない。

学び方を身に付けるというのは、学習において客体ではなく主体になるということである。
この休校期間で、ますます学力の格差が開くものと思われる。
主体的な子ども(主人公)は、自らどんどん学ぶのに対し、客体の子ども(お客様、お子様)は、給仕を待つばかりだからである。

要は、ネット動画やプリント課題等の、全員に同一の、ある一つの教材に対しての、個々の姿勢が問われる。
時間と空間の裁量権である。
それを活用するか浪費するかは、主人公かどうかにかかっている。

課題が出たからこなす、というだけの子どもがいる一方で、そこに自ら工夫をして発展的に学習する子どもがいる。
この学習習慣の積み重ねの差は、とてつもなく大きい。

これは、実際の授業でも同じことが起きる。
例えばただ漢字を習っただけで満足する子どもがいる一方で、成り立ちから熟語の意味まで調べ上げる子どもがいる。
これを毎時間、年間200回が続けば、どれほどの差になるか計り知れない。

そしてこれは、大人にもいえる。
日々の仕事に一工夫をし続けている人は、成長するに決まっている。
今回のこの事態は、未知のことだらけで、ある意味工夫の宝庫である。

主体的な学び手になること。
教える側と教わる側、両方に変革が迫られているといえる。
教える側としては、せめて学びやすい環境を整えるための知恵を絞っていきたい。

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