前号の「統計結果に騙されない」に関連して、自分の頭で考えるということについて。
統計結果というのは、謎の「みんな」という架空の存在の意見である。
「みんな」に流されるのは、危険である。
歴代にもってきた学級でも、子どもへ常々伝えていることである。
自分で考えて挑戦したなら、失敗してもいい。
むしろ、その失敗は推奨する。
自分の「安全領域」から出ることは、当然失敗を伴うが、同時に成長のステップでもある。
しかし、それが「みんな」がやったからやったことなら、最悪である。
ダメだとわかっているのに、「みんな」がやったからやった。
もしこれが個人の判断でやったならまだいい。
反省もできる。
しかし、「みんな思考」は、反省の余地を残さない。
そこに「私の責任」が存在しないからである。
みんながやったから仕方ないというような、無責任思考に陥り、無責任志向になる。
要は、常に子どもに伝えるのは、「自分の頭で考えろ」ということである。
これは、常に自分自身へ言っているともいえる。
このメルマガ上でも何度か紹介した、次の言葉がある。
(参考:http://www3.plala.or.jp/yokosan/nogutironbun-03-04.htm
私と同じく、野口芳宏先生を師と仰ぐ北海道の先生のH.P.である。)
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好きか嫌いかは,自分が決める。
良いか悪いかは,社会が決める。
正しいか正しくないかは,歴史が決める。
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「正しさ」は、長い歴史の中で規定されるのだから、到底「自分」の及ぶ範疇ではない。
良し悪しは、社会である「みんな」が決めるのだから、これも自分では決められない。
自分では「よかれ」と思ってやったことがある人にとって悪かったなんて、ざらである。
しかし、好きか嫌いかは、自分で決められる。
つまり、それをするかしないかはという行動は、自分で決められるのである。
しかし行動を「みんな」に決めてもらうようになると、どうなるか。
先の言葉にならえば、好きか嫌いかを、自分で決められなくなるということになる。
即ち、好きと嫌いの判断がつかなくなるということである。
自分では「嫌」だと思っているのに、ニコニコしてしまう。
自分では「好き」なのに、興味のないふりをしてしまう。
それを繰り返している内に、自分の好きと嫌いが本当にわからなくなる。
嫌いなものを「好き」と思い込むこともあり得る。
本当に好きなことを忘れてしまう。
子どもはその点が素直である。
その時に好きなことしかしない。
興味ないことにはさっぱり興味を示さない。
ある意味で、健全である。
学校は、学習指導要領が存在する以上、どうしても「みんな」化する面がある。
どんなに個性をうたっても、平均化を求める運命にある。
だからこそ、教える立場は「みんな」という言葉を使う時に、注意を払う必要がある。
統計、メディア、ニュース、SNS。
「みんな」を知ることには使えるかもしれないが、それは架空の存在である。
「みんな」という謎の存在に踊らされない。
それにも、日常がすべてである。
2020年3月25日水曜日
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