2020年3月23日月曜日

ドッジボールは是か非か

前号の「姿勢を正す」ということと関連した気付きを書く。
「丁寧」や「穏やか」「思いやり」といったことについて。

突然だが、読者の皆様は、ドッジボールを好きだろうか。
私は、子ども時代からずっと好きだった。
すばしこい上に、投げる力が強く、バシバシ当てることができたからである。

さて、ここに「強者の理論」が入っている。
どんどん当てられるから楽しい。
これは、ごく一部の子どもであり、学級の10%程度である。
多くは、「時々投げるチャンスが来ることがある」という程度である。
または「当たりたくないからずっと外野」という超消極的参加の子どももいる。

実際に学級担任を長年やってきて、ドッジボールは休み時間の定番遊びの一つであった。

しかしである。

体育で行ったことは、ほとんどない。
(ほとんど、というのは、遊びの応用に使えるように、王様ドッジなどの方法を単発で教えたことがある。)
なぜかというと、この運動に次の運動への発展性がないからである。
「ゴール型」「ネット型」「ベースボール型」のいずれにも当てはまらない。
「動く人間を的にして当てる」という運動が、ドッジボール以外にないからである。

よくよく考えると、これは、狩猟に似た遊びである。
逃げる獲物を狙いすまして撃ち落とす。
古来から世界各国で行われている辺り、人間が本能的に好む遊びであると思われる。

しかしながら、これを学校教育で行うべきかというと、甚だ疑問である。
学校で育てるべきは「本能」ではなく、「思いやり」や「丁寧さ」という社会で生きる力である。
ドッジボールで育つ力は、はっきりいって、真逆である。

最近は、これを電子空間上で行う取り組みも出てきた。
実際のボールが当たる訳ではないので、身体的な痛さがないのがいい。
ただ、人間を的にするという基本は同じである。
ゲームとしては有り得ると思うが、体育としていいかどうかは、正直まだわからない。
ただ、間違いなく一つの新しいエンターテイメントにはなりそうである。

そういう中での譲り合いを学ばせる、という意図も、あるにはある。
しかし、実際は、強者が弱者に譲るだけで、他の学習のような学び合いにはならないというのが実際である。

実はこれを考えたきっかけは、外国の学校で学んできた子どもたちが
「何なのこれは?」
と言ったということを聞いたのがきっかけである。
やったことがなかったらしい。
そして、「なぜ人にボールを当てていいのか」が理解できなかったらしい。
(他のことでは、明らかにダメな行為であるので、ある意味当然である。)

小学生のドッジボールは是か非か。
最近、ここに色々な説が入ってきているようで、なかなかホットな話題である。
私は単純に自分が好きだからやっていたが、ここ数年は考えさせられている。
とりあえず、今はやらずに考えておこうかというところである。

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