2018年9月9日日曜日

労働時間が長いから疲れるのか

今週末のセミナーに関連して、労働時間に関して。

労働時間が長すぎるというのが、常に多忙の槍玉に挙がる。
これは本当か。

実際、多忙かどうかは、労働時間の長さの問題ではない。
疲労感や多忙感は、本人の感じている「やり甲斐」の問題である。

やり甲斐の感じられない作業に従事することは、例え1分でも苦痛である。
逆に、やり甲斐や達成感を感じられることであれば、何時間でも没頭できる。
子どもが大好きなゲームをやっているのと同じ状況である。
研究者など、その典型である。

やり甲斐は、作業内容そのものには存在しない。
取り組む本人の姿勢が全てである。

例えば、算数の授業をする場合を考える。
とりあえずその時間をやり過ごしている人がいる。
その教材の内容や解き方を教えている人がいる。
思考法そのものを鍛えている人がいる。
仲間との協働を通して、生き方の基本を教えている人がいる。
「将来の日本を支える人材育成をしている」と考えて授業をしているかもしれない。

これらの人を比べれば、同じ時間を過ごしていても、その充実感は全く異なるものになる。
仕事を、面倒なものとしてみるか。
意味のあるものとしてみるか。
同じ作業に従事していても、この差はとてつもなく大きい。

「ブラック部活動」問題も、あくまでブラックなのは強制的で否定的な場合である。
顧問の中には、休みを返上してでもぜひやりたい、という場合だってかなりある。
別に残業100時間を越えても全く構わない人と、規定時間内でもへばってしまう人がいる。
ここが混同されがちである。
あくまで、やりたくない人に実質無給で無理矢理やらせて休みを返上させている状況が、ブラックなのである。

これは、夏休みの宿題の在り方の話にも共通する。
例えば、本校の1・2年生では、自由研究等の素晴らしい作品がたくさん出た。
ちなみに、必須課題はゼロ。(学年とは別に保健室から出た「歯磨きカレンダー」だけは必須であったが。)
出品するかどうかも本当に自由である。

そうして蓋をあけると、相当数の作品が出品された。
見れば、かなりの時間を費やしたと思われる作品がかなりある。
親の温かいサポートもあっての合作である。
作った本人たちも、満足そうである。

この場合、とても多くの時間をかけて大変であっても、徒労感はない。
自らの意思でやった、あるいは、最終的に熱中して「はまった」からである。
これを仕事と考えた時、「多忙感のある長時間労働」には当たらないといえる。

作業時間・労働時間というのが、最も客観的な数値データとして把握しやすく、「過労死」の原因として説得力がある。
数値が評価の物差しとして使いやすい。
成果主義の評価方法と同じである。
だから、槍玉に挙がる。

実際は、ここだけ見ても、部分的な解決にしかならない。
一番は、やり甲斐の問題である。

今度のセミナーでは、労働時間の短縮の話以上に、教師の仕事にやり甲斐をもつには、ということについて話をしたい。

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