2018年9月4日火曜日

温かくしつける

赤坂真二先生からの学び。

温かくしつけるということについて。

しつけるというと、厳しいイメージがある。
厳しいの対義語は甘い。
しつけが甘くては意味がない。
となると、やはりしつけは厳しくするものといえる。

しかし、厳しいと冷たいを混同しがちでないか。
二つは別の次元である。
冷たいの対義語は温かい。

冷たいしつけになってないか。
温かいしつけになっているか。

厳しくも温かいしつけは存在する。
しかし、厳しく冷たいしつけが多くなっていないか。

二つはどう違うのか、冒頭の言葉を聞いて考えてみた。

電車で騒いで動きまわってる2、3歳ぐらいの子どもがいる。

スマホをいじりながら
「じっとしてろって言ってんだろ」
と睨む母親。

抱き寄せてじっと目をみて
「電車では騒がないのよ」
と、穏やかに、かつぴしりと諭す母親。

言ってること自体はあまり変わらない。
しかし、明らかに効果は変わる。
子どもの思考の働きが全く異なる。

前者は、本能的な恐怖によるしつけである。
怒られる恐怖による統制。
思考の働きは不要である。

後者は、理解と愛情によるしつけである。
なぜそう言われるのか、考える余地もある。

また、動機も温かと冷たさに関わる。
子どものためを思っているのか。
単に、自分が周りの目を気にしているのか。

学級でもそのまま適用できる話である。
教師のための学級経営は冷たい。
教師の見栄ための公開授業も冷たい。
子どものためと言葉で偽り、自分の出世の道具にしているのは最も冷たく、汚い。

しつけは「躾」と書く。
身を美しくするものである。
生き方を美しくするものといえる。
子どもの人生を思ってなされるものである。

それは、冷たいか、温かいか。
言動一つ一つに対し、時々自省していきたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング