2022年3月5日土曜日

教室における「聞く」を考える

 「聞く」には2種類ある。

「音声として耳に入っている」という状態と「理解する」ということである。


つまり「一見聞いているようだけど理解していない」があり得る。

例えば、すごく真面目に授業を受けているけど、内容がわかっていない。

反応や返事がすごくいいけど、実はわかっていない。

こういう状態である。


逆に「聞いていないようで実は理解している」ということもある。

例えば、授業を真面目に受けてないと思っていたら、実はよく理解して楽しんでいた。

教室の後ろで好き勝手に寝っ転がって遊んでいたと思ったら、大事なことを急に発言する。

こういう状態である。


どちらをどう扱うか。

教室で歓迎されるのは、Aの方である。

真面目に聞いているように見えるからである。


しかし、実際はBの状態の方が学校の目的には適う。

一見扱いづらいようだが、身に付けさせたい学力をつけているともいえる。

聞く態度がよくないだけで、能力的には聞く力を活用しているということである。



学校教育の抱える問題点がここにあるように思っている。

即ち、表面的な態度を重視しすぎて、本質的な力をつけられていないのではないか、ということである。


「素直でいい子」「お利口」を称賛しすぎる傾向がみられないか。

よくわかっていないけど従うようにしていないか。

それは大人への迎合になっていないかということである。


よく考える子の中には、一見あまり素直には見えない子どもが複数含まれる。

例えば、全く喋らない(発言しない)子。

いつも「変な発言」をする子。

言われたことがなかなかできない子。


これらを「問題のある子」とみなすと、教育はその意義を失っていく。

大概、どこかが突出していれば、どこかが大きく凹んでいるものである。

突出している部分が多い子であれば、凹みも多い。

こちらから凹んで見えているのも、単なる表現の違いに過ぎないかもしれない。


教える側の問題は、凹んでいる(と思える)側にひどく注目してしまうことである。

逆に、突出している面は、ずっと上まであって、下からはよく見えないので注目されにくい。

「聞いていない」という態度面は、よく目立つ凹みに見える。


それは、本当に聞いていないのか。

本当に反抗的なだけなのか。

やる気がないのか。

本人なりの理由もあるのではないか。

聞けるようになる手立てがあるのではないか。

あるいは、一見聞けないままでも大丈夫なのではないか。


私自身、あまり授業をきちんと聞いていなかった、あるいは聞けなかったことが多々ある。

一方で、必要なことには全神経を集中して聞くこともある。

それは、今でも全く変わっていない。

自分という人間一人見ても、何でも同じようにはできないのである。


聞くことは学力の中心である。

ここをどう扱うかは、教育において重要な位置を占めると考える。

2022年2月26日土曜日

管理できるもの、できないもの

 学級経営に関して、「管理」ということについて思うことを書く。


ある時はたと気付いた。

人が他を管理する対象とは何か。

それは「モノ」である。

あるいは「環境」である。


モノは管理しないと、滅茶苦茶になる。

放っておけば増えて溜まるし、汚れて劣化する。

それらを捨てたり手入れしたりするのが管理である。


物理的環境も管理対象である。

例えば換気をして空気の入れ替えをする。

空気の管理をしているということである。

加湿器の水を取り替えたり、フィルタを乾燥させたりするのもそうである。

放っておけば空気も水も濁るため、必要である。


では「人間」は、管理できるか。


自分自身の管理を考える。

これは、ある程度できる。

自分はモノではないが、思考も感情も体も自分のもっているものである。

自分の意思で操作できる部分がある。

(ただし心臓の鼓動や細胞分裂など、意思で操作できない面の方が圧倒的に多い。)

そしてそれらは、他の人には一切操作できない。


眠いから横になる。

体のために自然なものを適度に食べる。

お酒を飲み過ぎないように適度でやめておく。

リラックスする音楽を聴く。

自分自身へのご褒美をプレゼントする。

イライラしそうな場から離れる。

体調がすぐれないので、早めに退勤して心と体を休める。

これらは自分自身の心、体、感情への管理である。


逆の行為をすれば、それは管理不行き届きであり、自分自身を壊すことになる。


これは、他人の管理はできないということでもある。

人を相手にお世話ならばできるが、管理する対象ではない。

心と体と感情は、それぞれ固有のものだからである。


学級担任が管理できるのは、子どもそのものではない。

子どもを取り巻く環境の方である。

子ども自身を管理することは、その子ども本人以外の誰にもできない。

子ども自身は、本人以外の所有物では決してないからである。


対象が機械やロボットなら管理できる。

命令に対し実行するようプログラミングされており、自在に操作できる対象である。


子育てや学級指導において、子どもをロボットにしてはならないということは、今までも方々で話してきている。

子どもを管理対象として見ているから、子どもがロボットのようになる。

「右向け右」で一斉に右を向き、「勉強しなさい」で勉強する。

こうなってしまった後、この命令を出す人がいなくなったらどうするのかである。


ロボット人間では、高性能の本物のロボットには到底勝てない。

人間がロボットに圧勝できるのは、ロボットにできない部分である。

よく命令をきく人間は、自分が困った事態になった時、思考停止でフリーズしてしまう。

あるいは、適切な命令と決定を下さない他人を責める思考になる。


学級経営における子どもへの指導とは、管理ではない。

指し導くだけで、それを選ぶかどうかは結局のところ本人次第である。

それは大人相手の場合と同じである。


極端な話、勉強をしないというのも本人の意思である。

宿題を一切やらない「のび太君」のような人間をどうするかというのが、学級経営の方針である。

全ての人間は、自由意志をもった存在であり、それは尊重されるというのが人権である。

人権は、他の人権を侵害しない範囲で最大限尊重されるものである。


人間を管理しようとすると、失敗する。

管理すべきは環境である。

集団に危害や迷惑をかける行為に対しては、集団を守る方向へ対象に働きかける。

これが環境への管理である。


その時、場合によってはその人の行動を制することもある。

罰則がないだけで、警察が交通安全を守るよう命じるのと同じである。

スピード違反も駐車違反も、周囲への危険行為、迷惑行為だから制限がかかる。

これは適切な管理対象である。


逆に言えば、他に迷惑のかからない行為に関して、制する理由はない。

怠惰な行動も奇抜なファッションも趣味も行動様式も、他人には関係ない。

それを周りがどう感じるかも、周り次第である。


ジェンダーへの捉えもそうである。

ここへの理解が広がったからこそ、今少しでも生きやすくなってきているのではないか。

個性の尊重と「普通」は両立しない。

「普通」があればそこから逸脱したものは修正すべきもの、あるいは排除対象となる。


しかしながら、大人が子どもに対し、不必要に過剰管理しがちになってしまうのはなぜなのか。

それは、大人自身が他の大人に管理されているからではないか。

管理されているのが当たり前になれば、自然そのように他人にも扱うようになる。


例えば勤め人であれば、給料も勤務時間も当然管理職の管理対象である。

これを適切に管理されることに不平を言うのはおかしい。

給料や勤務時間がおかしいのであれば、それは適切に管理できていない証拠である。


逆に、自分自身の自由意思までを管理されていたら、これはおかしな異常事態である。

どう感じるか、どう思うか、何を選択するか、何を言うかまで制限されていないか。

正しいことを正しいと言えない空気、黒を白と見ろという空気に毒されていたら、危険な兆候である。


あるいは、そうなっているのに、そうとすら感じなくなっていたら、いよいよ末期症状である。

自分がロボット化している証である。

この状態に自分がなっていると、仮に自分が子どもをロボット化していても、それに気付けない。


よい習慣化というのがある。

自分にとってよい行動をとっていても、それに全く気付かない自然な状態。

ごみを拾うのは、場をきれいにして運を拾うのと同じだから当たり前というような習慣化である。

目標に向かって何かをひたすら積み上げるのが楽しくて当たり前という状態。

子どもがレゴやパズルに熱中しているのと同じ状態であり、本人は努力とも思っていない状態。

これがよい習慣化である。


一方で、悪い習慣化もある。

自分自身へ及ぶ危険を回避するために、笑いたくないのに笑う。

怒られないよう、嫌な目に遭わないように努力する。

考えると辛いから何も考えないように決まったことを命じられるままにする。


自分自身をロボット化しないことである。

ロボット化とは、他人に自分を管理させている状態である。

それに対抗するには、自分自身を自分で管理することである。

同時に、他人を管理しないことでもある。


抽象的に聞こえるかもしれないが、学級担任には特に大切なことだと考える。

自分自身を大切にして、他者も尊重できる心の余白をもちたい。

2022年2月19日土曜日

相手の要望にどう応えるか

相手の要望にどう応えるかについて、オンライン学習会で話し合った。


学校に限らず、勤めていると、様々な場面で多種多様な要望をされる。

各仕事の顧客から要望が来る。

当然と思える要望もあれば、そうでないものもある。


例えば、製品へのクレーム電話や、飲食店での商品へのクレーム。

電話対応をしている人や店員さんには本来罪も落ち度もない。

しかしお客さんからすれば「会社」「お店」という枠組みで、ここに言うしかない。

そう考えると、理不尽な怒りをぶつけられることもあるが、これはある程度まで仕方のないことである。


ただ「だから返品させろ」とか「タダにしろ」とかの無理な要望に安易に応じる訳にはいかない。

第一その人はその店の責任者ではないし、お客さん側の使用方法等の問題という場合もある。

ではどこまで初期対応すべきかというと、最低限の仕事としては、訴えをよく聞いて責任者に報告するところまでである。

責任者、決定権者のやることまで勝手にしては、問題がこじれるばかりである。


問題は、仕事の線引きである。

やれるところと、やれないところ、やるべきところと、やるべきでないところがある。


社会では、役割が明確な仕事がある。

例えば、道端の落とし物を届ける先は、交番である。

火事が起きたら真っ先に報告するのは消防署である。

道路などの公共物が壊れていたら、報告先は役所である。


このように、社会において対応先が明確なものは問題ない。


問題は、誰が対応すべきか明確にわからないものである。


道端にごみが落ちていたとする。

風で飛ばされてきたのか、誰が落としたのかも勿論わからない。

気になるが、それを落とした人も、解決してくれる人も明確に存在しない。


これを拾って処分するのは、誰の仕事か。

多分、誰の仕事でもない。

「役所の人を呼んで拾ってもらう」というのは、不法投棄などの大きなごみの場合だけである。


だから、適当に誰かが拾って処分するしかない。

大谷翔平選手のように「運を拾っているだけだ」と前向きにひょいひょいと拾う人もいるだろうが、少数派である。

恐らく多くの場合、それが落ちていて最も困るという人が拾うはずである。

ある店の前にごみが引っかかていたら、多分その店の人が拾うだろう。

自分の店先にごみが落ちているのはいいものではない。

それぐらいのものである。


学校では、その手の仕事がかなり多い。

落とし物にしても、まず気付いた人が拾い、持ち主を探す。

それでもわからない時に「先生、落ちてました」が初めて発動する。

そういうように指導しておかないと、どんどん持ってきて持ち主不明の物で溢れかえる。


ごみは、気付いた人が拾うのが理想である。

しかしながら、子どもたちは紙ごみやストローの袋などがそこら中に落ちていても一向に構わないということも多い。

この場合、気付いたら拾って捨てることを指導する必要がある。


学校は、それら誰がやるか曖昧なものに対し、最終的に「先生、どうにかして」となりがちである。

これは学校の宿命といってもいい。


落ちているごみなど些細なことであれば、気付いた人で拾えばいい。

しかし、こと人間に関することであれば、誰の課題なのかということが大切になる。


例えば「Aさんをどうにかして」という要望に対しては、担任としては対応せざるを得ない。

しかし、本来は他人をどうこうすることは他人にはできない。

それは担任であっても同じである。

できることならできるが、できないことはできない。

「ない袖は振れぬ」のことわざ通りである。


クラス会議への議題投稿やお悩み相談BOXなどに時々あるもので、「Aさんをどうにかして」がある。

(ちなみに、クラス会議では個人名を挙げたものは議題にしない。

まず投稿者本人に直接話を聞く。)

これは、誰の課題なのか。


Aさん本人はどうにかしたいと思っていないのだからAさんの課題とはいえない。

Aさん自身が「どうにかしたい」と思っているのであれば、それが初めてAさんの課題であるといえる。

その課題をクリアする手助け、サポートをするのは、担任の仕事といえる。

しかしその場合であっても、課題としてはあくまでAさんのものである。


Aさんをどうにかして欲しいというBさん自身の課題かもしれない。

この場合であっても、担任はじめ周囲は手助けをするが、あくまで課題解決者はBさんである。

決して課題解決を他人が代行してあげてはいけない。

もしそれをしてしまうと、Bさんが課題解決をしたことにならず、Bさんには後々また同じような課題が提示されるからである。

子ども同士のけんかに大人は口を出すなとよく言うが、このためである。

下手に大人がしゃしゃり出ると、後々に悪い結果になるのは自明である。


他人をどうにかして欲しい、変えて欲しいという要望は、大抵本人の気持ちの課題である。

ただ、もし担任であれば、どうにもできないと突っぱねるのは多くの場合悪い結果を生む。

まず本人の気持ちにある程度寄り添って話を聞き、どうしたいか本人が決め、それを遂行するための手伝いをするしかない。


他人の課題を一手に引き受けてしまわないこと。

あくまで寄り添う姿勢に留める。

相手の要望にどう応えるかということへの一つの回答である。

2022年2月10日木曜日

同じ見た目と本質の違い

 教室には、大抵掲示物のスペースがある。

よく側面や後方面に設置されている、画鋲を刺しておける壁の部分である。


ここにおいて、時折とんでもなく硬い場所がある。

見た目はどれもゴム状の凹凸コーティングがされていて「掲示できます」という風貌だが、下地が全く違う。

モルタルのような柔らかい下地であればサクッとスムーズに刺さる。

一方で、コンクリートのような硬い下地のものだと容易には刺さらず、無理すると画鋲か爪の方がへし折れる。

しかし、両者とも見た目は全く同じなのである。


こういうことは身の回りのあらゆることに溢れている。


例えば、生鮮食品。

見た目がそっくりで同じような野菜でも、育てられた環境によって、そこに含まれる栄養素は全く異なる。

鶏卵でも、狭いケージの中でひたすら生まされ続けたものと、広い敷地でのびのび平飼いされた鶏が生んだ卵は、中身が全く違う。


(ちなみに、牛肉の「霜降り」にするには、敢えて運動させずにストレスをかけて脂肪をつけさせる方法もあるという。

本当に良い環境で大事に育てられて育った牛の高級な肉と、見た目だけだと見分けがつかない。

考えてしまう話である。)


例えば、製品。

ブランドバッグの偽物はかなり精巧に似せて作ってあるが、全くの似て非なるものである。

宝石も本物とイミテーションは見た目が同じなだけで、内実は全く異なるものである。

(かつてココ・シャネルは敢えてのイミテーションジュエリーをつくって流行させたそうだが、これも反骨精神からである。)


家電製品なども、かなりの似たものがある。

一つ大ヒット商品が出ると、それを真似て他社からも次々とそっくりで安価なものが出る。

しかし、やはり先駆者であるオリジナルのものは、その性能や品質において他に抜きんでたものがあることが多い。


100円均一のものはコストパフォーマンスを考えると、それなりに優秀であるものも多い。

しかしやはり100円の品であり、設計段階から材質まできちんと作られた本物とは全く違う。

要は、使い方次第である。


物事は、見た目だと判断を誤る。

見た目はあくまで見た目である。

良いと判断されるための装いも大切だが、その本質を見ることがより大切である。


教育においても同じである。

子どもを見る時も同じである。

見た目や現象で判断すると、本質的な判断を見誤る。


一番わかりやすいのが、テストの点数である。

同じテストの100点でも、一体どういう背景でとれた100点なのか。

元々勉強が好きで楽々とった100点なのか。

本人が一念発起して努力の末に勝ち取った100点なのか。

誰かに無理矢理やらされてとった100点なのか。

不正行為による100点なのか。


どれも見た目は「100点満点」である。

通知表のAやBにも同じことがいえる。


子どもの失敗にもいえる。

現象としてはどれも同じように見える失敗にも、背景がある。

本質を見ない指導は、子どもの成長を阻害する可能性がある。

本質を見事に捉えることができれば、失敗を大きな成長のチャンスにすることもできる。


見た目に惑わされないことである。


自然な姿が出ているほど、それは本質に近い。

自然の中でのびのび遊んでいる天真爛漫な子どもたちは、その時自分を作っていないから、見た目が本質そのままである。


一方で、社会におけるお利口な子ども、賢い子どもは状況に応じて上手に「作る」ので、そのまま見ると本質を見誤る。

作られた姿が出ている時ほど、本質とは真逆のことが多い。

「大人が見ている時だけ、評価される時だけがんばる」というのが最も顕著な傾向である。


やたらと反抗的な子ども、あるいは問題行動も、見た目で捉えると本質を見誤る。

大抵、外向け、社会向けに作った姿や表出した現象である。

生意気で反抗的、あるいは「どうしようもない」と見える子どもの心の底にある苦しみという本質にこそ、目を向ける必要がある。


見た目と中身は違う。

広告やパッケージ、華やかな見た目づくりが巧みな昨今こそ、本質を見直し、見極められるようにしたい。

2022年1月30日日曜日

学級経営の手法と本質

 学級経営の手法について。


学級経営とは、手法ではない。

在り方である。


・・・というのが本当に言いたいところだが、それでは多くの困っている先生方の役に立たない。

多分、多くの人が知りたいのは「どうするか」という具体的なやり方、手法である。

在り方が本当は大切なのだが、それを理解する前にやり方を実践していれば身に付く面もあるので、記してみる。


まずやり方を考える前提として、恐れの発想からやるものは、長期的に見て大抵失敗する。

例えば「学級が荒れないように」という発想になった時点で、既に恐れているし、失敗している。


発想の出発点をいつも「子どもが良くなる」あるいは「自分も含めた全員の幸せ」に置く。

ある特定のことだけにではなく、全ての教育行為の起点をここに置く。

子どもたちに「24時間道徳です」と教えているが、自分自身にも言っていることである。

(ちなみに、ここでいう道徳とは教科のことではなく、生きるのにより良い道の選択というような意味合いである。

一般道徳的に見て悪いことを一切してはいけないという意味ではない。)


具体例を挙げて説明する。


「あいさつをきちんとしよう」と指導したいとする。

これだけだとうまくいかない。

どんなあいさつが「きちんと」なのか、あるいは良いものなのか、イメージできないからである。

効果的指導とは、相手がイメージできるものを指す。


私は、機を見てあいさつの指導をする。

次のように板書する。


あ

い

さ

つ


「どんなあいさつが良いあいさつでしょうか」と問いかける。

一通りきいた後、先の板書に続ける。


あかるく

いつも

さきに

つたわるように


これが「きちんとあいさつ」の具体的な内容を指す。

あいさつの本質は、互いの幸せである。

ここを外さない指導をすればいい話である。


「どんな風に?」=明るく(相手の気持ちを暗くしてしまうとあいさつの意味がない)

「いつ?」=いつも(自分の気分どうこうは関係ない)

「どちらから?タイミングは?」=自分から先に(迷っている暇はない)

「どれぐらいの声の感じや表情で?」=伝わるように(声の大きさそのものが問題なのではない)

という内容を短くエッセンス、キーワードとして伝える。


その上で「結局、お互いが気持ちよく生きるため」というあいさつの本質も確認していく。


一単元の授業などではなく、あいさつという日常の些末なことの指導である。

ただ、こういった小さなことを応用して指導していけばいいというだけの話である。


ちなみに、欧米において、あいさつは身を守るためだという話を聞いたことがある。

人種も言語も何もかも多様な人間と出会った際に「敵ではない」ことを示す必要があるのだという。

これは「恐れ」発想である。

正しいのかもしれないが、実際は多分「ハロー」と笑顔で自然と気持ち良く挨拶しているだけではないかと思う。

子どもに指導する時のあいさつの目的が「敵だと思われないため」ではやはり悲しいし、本質を外す。


学級経営の話になると、こういった指導をあらゆる場面で、かつ総合的に行うことになる。

メルマガやブログの分量では到底書ききれないほどあるので、これまでまとめた書籍の方にも是非あたってみて欲しい。

指導の本質的エッセンスが汲み取れること請け合いである。

2022年1月27日木曜日

お節料理へのニーズの変化と本質

 年末、道徳の学習で、お正月について扱った。

日本の伝統的な文化についてである。


その中で「おせち」を詳しく取り扱った。

食材に込められた願いについては、おせちを食べない家庭も増えていることもあり、意外と知らないものである。

(子どもの指摘した通り、ほぼダジャレだが。それでいいのである。)


お節料理は、神様にお供えし、共に食べるための保存食である。

「火の神様」を休めるために、正月の三が日は台所に火を入れない。

即ち、料理から解放される日でもある。


しかし現代においては、こうならないことが多いという。

昔はお節料理の中心である甘いものが御馳走であったが、今はそうでもない。

普段から甘いものも御馳走も溢れており、これだけではやはり飽きる。

そうなると、本来のお節料理にはない豪華な海鮮料理や肉料理が加わったりする。

それでも、三日間をお節料理だけではなかなか満足できない。


従って、三が日も台所としては特に変わらない状況になる。

(あるいは、お取り寄せや外食という手もある。)

元は休むための仕組みだが、その点については時代のニーズにマッチしなくなってきているとも言える。


同じような現象は、社会全体にも起きている。

本来は誰もがお休みするはずの三が日だが、一月一日から営業中の店もたくさんある。

他が休んでいる中で商売すれば、儲かるのは自明の理である。

そうなれば、みんな休まなくなるのも必然である。


では、営業しているのが悪いのかといえば、それは全く違う。

それぞれ都合も事情もある。

顧客の強いニーズがあるからこそ、自然と成り立っているといえる。


誰かに都合のいい特定のルールに全員が揃えようということ自体、時代に合わない。

誰かの都合に合わせる時、誰かが不都合を起こしている。

例えば、昨年から今年にかけて、感染症対策としての営業自粛で揉めに揉めたが、それも同様である。

「自粛した場合は支援金。だが強制しない」のように、相手の都合に応じた選択肢の提示、幅が必要である。


学校も、もはやこの特定のルールに揃えようということに無理が生じている。

個々のニーズが異なるのに対し、同一のものを提供しても、うまくはまらない。

給食のアレルギー対応のように、あらゆるものに個別の対応が必要になっている。


そうなると、学級担任には対応の選択の幅、裁量権が欲しい。

裁量権の大きさとルールの厳重化は、トレードオフの関係である。

今は、感染症対策やタブレット端末使用という新しいことに対してルールが厳重化している。

その一方で、個別の特別対応を迫られるという状態である。

裁量権がある程度あれば、スムーズに対応できる。

「裁量権は一層制限するがよりよい対応をせよ」という無理難題を突き付けられている状態では、全員が不幸である。


学校にも、規制の緩いおおらかな時代があったという。

今では信じられないぐらい、学校と子どもと家庭の距離も近かった。

例えば「子どもを教師が自家用車で送る」「送った先のご家庭で夕飯をご馳走になる」

といったことも、一昔前は珍しくなかったようだが、現代では禁止事項であり、そもそも起き得ないことである。

現代は子どもにとっても、ボールで遊べる場所も木登りも何もかも、ルールと禁止が乱立している状態である。


子どもの安全を脅かす要素は、極力取り除かれ、「安全」な学校生活が求められる。

(「 」付なのは、それが将来的に本当の意味で安全とはいえないと考えるためである。)

それら子どもの行動を統括する担任に課せられるルールの多さと厳しさは、想像以上である。


しかしながら、子どもは時代が移ってもあくまで子どもであり、ルールに縛られる存在ではないため、勝手気ままに動き回る。

そして、それが自然であり、そうあって欲しいと願う。

それをわかって敢えて口うるさく言うのが親や教師の役割の一つである。

「廊下を走らない」というルールがなくならない以上、それを注意する行為もなくなることはない。

それは、どんなに時代が移っても変わらないことである。


現代におけるルールを守らせようという行為の多くが、揃える意識に端を発しており、子どもへの愛情とは違うように思う。

本当に必要なルールであるかどうかの再検討が大いに必要である。


恐れに端を発する行為は、やはりどこかで無理が生じる。

人間は元来、幸せを主体的に選んで生きる存在である。


お正月のお節料理へのニーズが変わっても、幸せを求める本質は変わらない。

お正月はゆっくり休むのだという目的に合致するのであれば、何を食べて過ごしてもいい。


学校も、時代のニーズの変化はあるけれど、子どもの幸せと成長に資する場であることは忘れずにいたい。

2022年1月24日月曜日

「ま、いっか」の思考法

 次の本から。


『運命を拓く』 中村天風著 講談社文庫

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000197824


「絶対積極」という言葉がある。

著者の中村天風氏の言葉である。


目の前の出来事への捉え方が全てであるという。

ただこれは、何でもかんでもポジティブに捉えるということではない。

大切なのは、出来事への意味付けというか、その後の心の持ち方である。


例えば真っ白なシャツにソースがはねたのを「やった!」と思うのは無理がある。

それ自体はあまり歓迎したい出来事ではない。


これに対し「がっかりして落ち込んで一日何となく不機嫌になる」という反応をすることができる。

「最悪!」と呟いて一人で怒り続けることもできる。

これは、本人の選択である。


一方「新しいものに買い替える丁度いい機会か」と前向きに捉えることもできる。

あるいは「そういう運命だったのだろう」と割り切って考えることもできる。

「ま、いいか」と文字通り洗い流すこともできる。

これも、本人の選択である。


感情自体を否定しないことである。

例え悟りに達した聖人であっても、喜怒哀楽は感じるという。

ただそこに執着しない、積極的な心構えをもてることが大切だという。


学校では、様々な出来事が起きる。

嬉しいことだけではなく、中にはがっかりすること、哀しみや怒りを感じる出来事も起きる。

「怒ってはいけない」と思うと無理が出る。

一方で「その怒りに支配されない」というのは、心の訓練次第である。

基本的に「感情は数秒」なので、考えすぎて引きずらないことである。


嬉しいことを何度思い返しても嬉しい。

感情の反復活用である。


怒りや哀しみを繰り返し思い出して考えれば、それも増幅する。

元の感情とは違ったところで更に怒り哀しむことになる。

「母が昨日あれを洗濯してくれていなかったから、白いシャツを着る羽目になった」

「それだってそもそも・・・」

などと見当違い、お門違いな怒りを新たに生みだし続ける。


私が比較的汎用性があると思って使うものは、先にも挙げた

「ま、いいか」

である。

子どものトラブルのいちいちに目くじらを立てていては、こちらが倒れる。

大概はこのキーワードで乗り切れる。

(ただし、以後の再発防止対策はとるようにする。

またトラブルが起きればお互い嫌な思いをするからである。)


「絶対積極」の境地には達せないまでも、ゆるゆるやれるのではないかと思う。

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